2008年02月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:柴屋寺

全国展開の三回目は、東海道の丸子(まりこ)宿に程近い閑居の寺、柴屋寺(さいおくじ)を取り上げます。

柴屋寺は、吐月峰(とげっぽう)柴屋寺とも呼ばれる寺で、1504年(永正元年)に連歌師の柴屋軒宗長が草庵を結んだのが始まりとされています。
柴屋寺の寺伝によれば、宗長が草庵を結ぶ以前、この地は駿府の外城の一つ、丸子城があり、後の駿河今川家当主・今川氏親がこの地にあって難を避けており、宗長も丸子城に滞在していたと伝えられています。

宗長は、もともと京都で宗祇に師事して連歌を学び、一休宗純に参禅して酬恩庵に住んだほどの人ですから、単なる連歌師ではなく、今川氏親に仕えて今川家の外交顧問としての働きをしたと伝わっています。
そして、今川氏親がこの草庵を寺に改め、柴屋寺にしたようです。

その後、今川家の没落とに合わせるように衰微したものの、徳川家康が朱印地を賜って堂宇を修復し、現在に至っています。

柴屋寺の庭園は宗長自身が築いたもので、慈照寺(銀閣寺)の庭園を模したものとも伝えられ、また周囲の山を巧みに取り入れた借景庭園でも知られており、国の史跡、名勝に指定されています。
この庭園を中心に、柴屋寺を紹介していきます。


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ラベル:静岡
posted by karesansui at 23:14| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

若年寄の諸国で侘び寂び:恵林寺

全国展開の第二回目は、夢窓疎石作庭の庭園を持ち、武田信玄の菩提寺ともなっている臨済宗妙心寺派の古刹、恵林寺(えりんじ)を取り上げます。

恵林寺は、1330年(元徳2年)に、当時の甲斐牧ノ庄の地頭職・二階堂出羽守貞藤(道薀)が、夢窓疎石を招いて自らの屋敷を禅院に改めたのが始まりとされています。

当初は鎌倉・円覚寺の末寺であり、関東準十刹の寺格を持っていたようですが、後に妙心寺の末寺となっています。
戦国時代には武田信玄が快川紹喜を招き、信玄が恵林寺に寺領を寄進したことで寺勢が高まりました。ところが、武田氏滅亡の後、恵林寺がかくまっていた者の引渡しを拒んだため、織田信忠の軍勢の焼き討ちに遭ってしまいました。

後に徳川家康によって快川和尚の法嗣となる末宗和尚が招かれて再興され、江戸時代には甲府藩主となった柳沢吉保によって寺の修復が行われています。
1905年(明治38年)の火事により本堂と庫裡を失いましたが、再建されて現在に至っています。


恵林寺は、夢窓疎石作庭の庭を残すとされていますので、その庭を中心に、幅広く紹介したいと思います。


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ラベル:山梨
posted by karesansui at 23:54| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月02日

若年寄の諸国で侘び寂び:宗隣寺

全国展開の第一回目は、山口県最古の庭園「龍心庭」を持つ、宗隣寺(そうりんじ)を取り上げます。

宗隣寺は、宇部の領主であった長州藩の家老・福原広俊が、1670年(寛文10年)、父・元俊の菩提を弔うために、普済寺(ふさいじ)の跡地に建てたものです。
福原氏は毛利氏の一族で、関ヶ原の戦いの結果毛利氏が大幅な減封を受けて萩に移転した後の1625年(寛永2年)に、福原元俊が厚狭郡宇部村など8000石を領有するようになりました。以後、福原氏は毛利氏の永代家老を兼ねつつ、宇部を幕末まで治めることとなりました(宇部市教育委員会のページより)。

普済寺は777年(宝亀8年)に唐より日本にやってきた為光和尚(威光和尚とも)によって創建された寺ですが、当時どのような宗派だったかなどは(当時はあまり宗派の概念がなかったこともあってか)判っていないようです。
後に禅宗となり(現在大阪・鶴満寺にある梵鐘が普済寺に寄贈された際、『宇部郷松江山普済禅寺』の追銘がされているとのこと(宇部観光コンベンション協会のページより))、さらに後には荒廃したようです。

宗隣寺は江戸時代に入ってからの建立ですが、庭園「龍心庭」は普済寺時代に造られたもので、山口県内最古の庭園とされています。
この庭を中心に、宗隣寺について書いてみたいと思います。


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ラベル:山口
posted by karesansui at 23:33| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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