2012年03月03日

若年寄の諸国で侘び寂び:根来寺

全国展開の23回目は、根来寺(ねごろじ)を取り上げます。

根来というと、どうしても戦国時代の僧兵のイメージを持ってしまいますが、もともとは興教大師・覚鑁(かくばん)が興した学問所などに由来しています。
覚鑁上人はもともと高野山に本拠を置いており、大伝法院を建立し、鳥羽上皇の庇護を受けてその一派は隆盛していましたが、覚鑁上人の真言宗建て直し、すなわち宗教改革に反発した高野山の他の一派が焼き討ちを行うに至り、1140年(保延6年)に覚鑁は高野山を下りて根来の地に落ち着きました。

その後、1288年(正応元年)に頼瑜僧正が大伝法院を高野山から根来に移したことで根来は学問都市として発展し、最盛期には300とも400ともいう数の子院が置かれましたが、次第にその性格は鉄砲集団へと変質し、近隣の雑賀衆ともども強力な鉄砲集団であったことから、豊臣秀吉の紀州攻めを招いてしまいます。1585年(天正13年)の秀吉による紀州攻めで根来寺はほとんどの建物を焼き払われ、しばらく復興されることはありませんでした。

その後、紀州徳川家の庇護のもので復興が進められ、主要な伽藍が江戸時代にかけて建てられて現在に至っています。


根来寺は国宝の大塔など、大伽藍に目が向きがちですが、名勝庭園を持つ寺でもあります。
そういった根来寺の側面にフォーカスを当ててみたいと思います。


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タグ:和歌山
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2011年07月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:那谷寺

全国展開の22回目は、石川県の古刹、那谷寺(なたでら)を取り上げます。

那谷寺は、越の大徳と呼ばれた名僧・泰澄によって、717年(養老元年)に創建されたと伝えられています。その際に、霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置したとされています。
986年(寛和2年)、行幸された花園法皇が岩窟内の観音三十三身の姿を感じ、西国三十三箇所観音霊場の一番「那智山(青岸渡寺)」と三十三番「谷汲山(華厳寺)」の一字をそれぞれ取って、那谷寺に改名したとされていますが、真偽の程は不明です。

その後、南北朝時代に荒廃し、白山の修験者などによって何とか命脈を保ち、1640年(寛永17年)に前田利常の再興を得ます。そして三重塔や書院等、大半の伽藍がこの時期に再建され、現在に至っています。

那谷寺は前田利常に由来する名勝庭園を持ち、さらに数々の見所がありますので、順を追って見ていきたいと思います。


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タグ:石川
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2011年05月28日

若年寄の諸国で侘び寂び:雲樹寺

全国展開の21回目は、安来のサツキ寺として知られる雲樹寺(うんじゅじ)を取り上げます。

雲樹寺は、1322年(元享2年)に弧峰覚明禅師(国済国師、三光国師)を開山として創建されました。
弧峰禅師は、もともとは比叡山で受戒して天台教学を学んでいましたが、のちに禅宗を学び、中国(当時は元)に渡って修行したという経歴を持っています。
そして雲樹寺を開いた後、隠岐に流されていた後醍醐天皇が船上山で挙兵したときに招かれ、「国済国師」の号と「天長雲樹興聖禅寺」の額を賜ったり、後村上天皇の帰依を受けて「三光国師」の号を賜ったりしています。

元禄の頃に伽藍の大修理が行われ、併せて現在の庭園が整備されましたが、1820年(文政3年)に伽藍の大半が火災で焼失し、後に再建されて現在に至っています。

雲樹寺といえばやはりサツキの庭園であり、それを中心に取り上げたいと思います。


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タグ:島根
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2011年04月24日

若年寄の諸国で侘び寂び:瀧谷寺

全国展開の20回目は、福井県初の名勝指定を受けた庭園を持つ、瀧谷寺(たきだんじ)を取り上げます。

瀧谷寺は、1375年(永和元年)、紀州根来寺の睿憲上人によって創建されたと伝えられています。
以来、朝倉氏、柴田氏、松平氏等の歴代領主の祈願所となり、当時の繁栄の一部を今に伝えています。

瀧谷寺は歴史ある古刹であり、杉木立の「参道」は古の頃から変わらぬ姿を見せているとされています。
takidanji01.jpg
さらには、興味深い建築もありますので、庭園だけでなく広く見ていきたいと思います。


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タグ:福井
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2011年01月30日

若年寄の諸国で侘び寂び:大安禅寺

全国展開の19回目は、福井県の名刹、大安禅寺(だいあんぜんじ)を取り上げます。

大安禅寺は、1659年(万治2年)に時の福井藩主・松平光通により、開山に大愚宗築禅師を迎えて建立されました。
もともとこの地には奈良時代より田谷寺という寺院が存在していましたが、織田信長の越前侵攻により1574年(天正2年)に焼失し、大安禅寺はその跡地に造られたものとされています。

その後、大安禅寺は特に火に掛かるようなこともなく、また福井地震の影響もなく現在に至ったため、江戸時代初期の建物(国の重要文化財指定)を今に残す、この地では貴重な寺院となっています。
また、今では花菖蒲で著名であり、季節には周辺から参拝客が多数来るようですが、普段は山里の静かなお寺です。


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タグ:福井
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2010年09月30日

若年寄の諸国で侘び寂び:輪王寺

全国展開の18回目は、仙台・北山の古刹、輪王寺(りんのうじ)を取り上げます。

輪王寺は、1441年(嘉吉元年)に伊達家十一代持宗によって建立されました。
輪王寺は伊達家による伊達家のための寺であったため、当初は伊達家の出身地・梁川に建立されましたが、伊達家が居城を転々とさせたため、輪王寺もこれに従って所在を何度も動かすこととなり、現在の地に落ち着いたのは1602年(慶長7年)のことです。

江戸時代は伊達家の庇護の下で発展してきましたが、明治時代になり伊達家の庇護を失い、さらに1876年(明治9年)の火災で仁王門以外のすべての伽藍を失ってしまいました。
これに対し、曹洞宗の大本山・永平寺と総持寺は、1903年(明治36年)に福定無外和尚を住職に任命して復興を行わせました。福定和尚の努力により1915年(大正4年)に現在の庫裡と本堂が完成し、後に庭園の整備等が行われて現在に至っています。

輪王寺は、この辺りでは珍しい庭園が美しい寺であり、その庭園を中心に輪王寺をみていきたいと思います。


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タグ:宮城
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2010年08月22日

若年寄の諸国で侘び寂び:興禅寺

全国展開の17回目は、木曽三大寺の一つ、木曽福島の興禅寺(こうぜんじ)を取り上げます。

興禅寺は、1434年(永享6年)に、木曽信道が先祖の菩提を弔うために荒廃していた寺があった場所を改めたものです。木曽氏は木曽義仲を祖先とするような系譜がありますが、実際にはそのような血筋のつながりはなく、当初から木曽義仲の存在を念頭において興禅寺を創建したわけではないようです。

ともあれ、全山とも三度にわたる火災(昭和に入ってからですら、宿場街が全滅するほどの大火が起きています)により古い建物は残っていませんが、この地の中核をなす寺としてすぐに再興され、また、近年は庭も造られて現在に至っています。

興禅寺は、4つの庭を持ち、特に石庭として日本一の広さを持つ看雲庭はつとに有名です。
これらの庭を中心に興禅寺を見ていきたいと思います。


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タグ:長野
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2010年05月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:定勝寺

全国展開の16回目は、木曽三大寺の一つ、大桑村の定勝寺(じょうしょうじ)を取り上げます。

定勝寺は、1430年(永享2年)に、木曽家第十一代の親豊によって創建されました。その後、2度の洪水による流失の後、1598年(慶長3年)に、当時木曽の代官を務めていた犬山城主・石川貞清によって現在の本堂などが移築されました。

1880年(明治13年)には明治天皇の行在所となり、近年は小口基實氏によって庭園が整備され、現在に至っています。


定勝寺は、その歴史ある建物と庭園のそれぞれが見所だと思いますので、それぞれ取り上げたいと思います。


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タグ:長野
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2009年10月25日

若年寄の諸国で侘び寂び:医光寺

全国展開の十五回目は、前回の萬福寺と同じく益田にあり、雪舟作庭とされている庭園がある医光寺(いこうじ)を取り上げます。

現在の医光寺は、1363年(正平10年)に崇観寺という名前で現在地の西に建立された寺院を始まりとしています。崇観寺は東福寺の法系、竜門士源を開山としていますが、その後は天台宗の寺となっていました。
そして、1478年(文明10年)から雪舟が益田に滞在したときは、崇観寺の住職となっています。

医光寺は崇観寺の塔頭として建立されましたが、当時の益田氏当主・益田宗兼は医光寺への保護を厚くしたことから医光寺が栄えて崇観寺が衰え、最終的には崇観寺が火災に遭ったのを期に、医光寺に合併されてしまいました。

その後、1729年(享保14年)の大火で焼けてしまい、その後建物が再建されて現在に至っています。


医光寺には、雪舟作庭と伝えられている庭園があります。
萬福寺常栄寺とは雰囲気の異なるものであり、その違いも踏まえながら、医光寺を見ていきたいと思います。


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タグ:島根
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2009年10月10日

若年寄の諸国で侘び寂び:萬福寺

全国展開の十四回目は、山口の常栄寺と同じく雪舟作庭と目されている庭園がある萬福寺(まんぷくじ)を取り上げます。

萬福寺は、平安時代に天台宗の「安福寺」として創建されたと伝わっています。
その後、1026年(万寿3年)の大津波で被災して堂宇が流失し、それを1319年(元応元年)に遊行4代呑海上人が再興したことで、時宗の寺となりました。
1374年(応安7年)には、この地を治めていた益田兼見によって現在の地へ移転され、名称も「萬福寺」に改称されました。
1478年(文明10年)、益田兼尭の招きによって雪舟がこの地を訪れ、翌1479年(文明11年)には萬福寺庭園を雪舟が作庭したとされています。
幕末には第2次長州征伐・益田口戦争の幕府方本陣となり、兵火で総門を焼失しましたが、幸いにも本堂などは無事であり、その本堂は1933年(昭和8年)に解体修理を受け、現在も移転当初の姿を見せています。

萬福寺は、前述の通り雪舟作庭の庭園と伝わる庭がありますので、これを中心にみていきます。


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タグ:島根
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2009年09月30日

若年寄の諸国で侘び寂び:常栄寺

全国展開の十三回目は、雪舟作庭と推定されている庭園を持つ常栄寺(じょうえいじ)を取り上げます。

常栄寺は、当時の周防守護・大内政弘が母の菩提を弔うために、自身の別荘を寺に改め、妙喜寺として創建されたと伝わっています。
その後、毛利氏の時代になって、毛利隆元(毛利元就の息子)の法名に因んで常栄寺と改称されました。


常栄寺には、雪舟庭と呼ばれる、室町時代の様式を色濃く残す庭園があります。この庭園を中心に、常栄寺をみていきたいと思います。


この「総三門」が、雪舟の世界への入口です。
joeiji00.jpg

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タグ:山口
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2009年08月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:毛越寺

全国展開の十二回目は、中尊寺と並ぶ平泉の古刹、毛越寺(もうつうじ)を取り上げます。

毛越寺は、慈覚大師円仁が中尊寺と同時(850年(嘉祥3年))に開山したとされています。
もっとも、中尊寺が実質的に奥州藤原氏初代の清衡が創建したといわれているのと同様、毛越寺も奥州藤原氏二代の基衡が実質的には創建されたと考えてよさそうです。
毛越寺は「吾妻鏡」によれば『堂塔40僧坊500』といわれ、発掘調査で「吾妻鏡」の記述と当時の境内の様子が一致することから、中尊寺よりも規模が大きかったことが伺えます。

しかしながら、奥州藤原氏の滅亡とその後の火災、兵火により、毛越寺の建物はほとんどなくなってしまい、1728年(享保13年)に再建された常行堂以外は、庭園がひっそりと残り、礎石が佇むだけの期間が長く過ぎていきました。

毛越寺の復興は近年で、1954年(昭和29年)からの発掘調査によってその規模などが明らかになり、続いて鐘楼や開山堂(当初は宝物館)が建てられ、1989年(平成元年)に至って、現在の本堂が再建されました。


毛越寺といえばやはり、平安時代の遺構として名高い浄土庭園です。
この浄土庭園を中心に見ていきたいと思います。


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タグ:東北
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2009年08月02日

若年寄の諸国で侘び寂び:円通院

全国展開の十一回目は、松島・瑞巌寺の隣にある円通院(えんつういん)を取り上げます。

円通院は、伊達藩(仙台藩)二代目藩主・伊達忠宗の息子、伊達光宗の菩提寺です。
伊達光宗は伊達忠宗の世子として期待されていましたが、惜しくも19歳で亡くなり、一部では光宗の優秀さを警戒した江戸幕府による毒殺説もあるほどです。
その光宗の御霊屋として1646年(正保3年)に建立されたのが「三慧殿」であり、円通院はその翌年に開創されています。

三慧殿は、支倉常長が西欧から持ち帰った様々な文明が模様として描かれているためか、鎖国の世にあってその門は閉じられ、近年まで公開されていませんでした。
その三慧殿を中心に、円通院にはいくつかの庭がありますので、それを順に取り上げてみたいと思います。


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タグ:東北
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2009年07月18日

若年寄の諸国で侘び寂び:国泰寺

全国展開の十回目は、高岡にある臨済宗国泰寺派の総本山、国泰寺(こくたいじ)を取り上げます。

国泰寺は、慈雲妙意(恵日聖光国師)によって、正安年間(1300年頃)に、現在地の南、二上山の地に「東松寺」として開創されたと伝わっています。
その後、後醍醐天皇の帰依を受け、1333年(元弘3年)に国泰寺と名を改めて、南禅寺と同格の勅願所に指定されています。
国泰寺は北朝の帰依も受けており、1345年(北朝貞和元年)には越中の安国寺に指定され、足利尊氏によって伽藍の修理や荘園の寄贈も受けました。

しかし、戦国時代に至って戦乱によって荒廃し、1546年(天文15年)に後奈良天皇の綸旨を受けて、現在地で再興されたと伝わっています。
その後、徳川綱吉によって法燈派総本山に指定され、享保年間には伽藍の大整備が行われました。
明治時代には廃仏毀釈の余波を受けましたが、山岡鉄舟の尽力もあり、伽藍の修理や再建が行われ、昭和に至ってさらに伽藍、庭園が整備されて現在に至っています。

国泰寺は北鎮第一禅刹としての顔のほうが有名ではありますが、昭和になって築造された庭園も充分に見応えあるものですので、紹介したいと思います。


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タグ:富山
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2009年06月29日

若年寄の諸国で侘び寂び:光前寺

全国展開の九回目は、早太郎伝説や桜で知られ、また、境内全体が国指定の名勝に指定されている光前寺(こうぜんじ)を取り上げます。

光前寺は、860年(貞観2年)に本聖上人によって創建された、南信州随一の古刹です。本聖上人は慈覚大師円仁の弟子と伝えられ、以後、一貫して比叡山延暦寺の末寺として現在に至っています。

早太郎伝説とは、以下のようなものです。

昔むかし、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われていました。

その頃、遠州(静岡県)見付村では、田畑が荒らされないようにと毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、いけにえにとして神様にささげる人身御供という悲しい習わしがありました。

ある年、村を通りかかった旅の坊様は、神様がそんな悪いことをするはずがない、その正体を見とどけようと、祭りの夜に様子をうかがっていると、大きな怪物が現れ、「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」などと言いながら娘をさらっていってしまいました。

坊様は早太郎に助けを求めようとすぐ信州へ向かい、光前寺の早太郎をさがし出すと借りて急いで見付村へと帰りました。

次の祭りの日には、早太郎が娘の身代りとなって怪物と戦い、それまで村人を苦しめていた怪物(老ヒヒ)を退治しました。

早太郎は傷つきながらも光前寺までたどりつくと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高くほえて息をひきとってしまいました。
(光前寺webサイトより)

このような伝説(話)は、怪物との対決があったとされる磐田市近辺にもあり、そちらでは「悉平太郎」と呼ばれているそうですが、いずれにしても同じような伝説が多く残されているのは不思議なことだと思います。


では、なぜ光前寺がこの伝説の舞台の一つとなったのかですが、それは光前寺の歴史の長さにあるのでしょう。各地で伝説になるほどの寺というものは、相応に知名度がなければなりませんし、ましてや静岡県西部にまで名前が知れているとなるとなれば尚更でしょう。
そして、光前寺全体が庭園として指定され、その中にあっても古い庭園が庭園として残っている、ということもまた、光前寺の歴史の一つというべきものと思います。

そういうわけで、ここでは特に、光前寺の庭園を中心に書いていきたいと思います。


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タグ:長野
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2009年05月31日

若年寄の諸国で侘び寂び:光久寺

全国展開の八回目は、富山県の名勝に指定された庭園を持つ光久寺(こうきゅうじ)を取り上げます。

光久寺は、当初は現在地からやや離れた仏生寺にあって、奈良の長谷寺の国分寺として創建されたと伝わっています。
創建当初は真言宗、あるいは密教系の寺院だったようですが、1343年(康永2年)に当時の領主・狩野中務の帰依を受けて浄土真宗に改められ、現在に至っています。

光久寺はその庭園、「光久寺の茶庭」で有名ですので、この庭園を中心にみていきたいと思います。


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タグ:富山
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2008年10月19日

若年寄の諸国で侘び寂び:大善寺

全国展開の七回目は、甲州市(旧勝沼町)にあるぶどう寺・大善寺(だいぜんじ)を取り上げます。

大善寺は、718年(養老2年)に行基によって創建されたと伝えられています。当時、行基は僧尼令違反で弾圧を受けたばかりであり、行基自身の創建とは到底思えませんが、少なくとも本尊の薬師三尊が彫られた平安初期までは遡れる古刹です。

大善寺にはぶどう発祥の伝説が伝わっており、そこにも行基の名前が出ていますが、ぶどう発祥自体が大善寺説と雨宮勘解由説の2説あってどちらも確証がないという状態です(甲州市ホームページより)

その後、大善寺は武田勝頼終焉の直前の宿泊地ともなったようですが、特に武田家滅亡の影響を受けずに鎌倉時代に建てられた薬師堂がそのまま残って現在に至っています。

大善寺にはまた、山梨県の名勝に指定された庭園もありますので、薬師堂などとあわせてみていきたいと思います。


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タグ:山梨
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2008年09月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:摩訶耶寺

全国展開の六回目は、浜名湖の西北にある古刹、摩訶耶寺(まかやじ)を取り上げます。

摩訶耶寺の寺伝によれば、726年(神亀3年)に行基によって創建された、ということですが、行基自身がここまで来たかは別として、ここからさほど遠くない豊橋にある普門寺が翌727年(神亀4年)に創建されていることからすれば、この当時この地域では、寺を創ることが一つの流れとしてあったのかもしれません。

創建後一度現在地の近くに場所を移してから、さらに平安末期に現在地に移りました。その移転のしばらく後に作庭されたとされているのが現在の摩訶耶寺庭園です。
その後、武田氏の兵火で伽藍が焼けましたが、1632年(寛永9年)に本堂が再建されて現在に至っています。

摩訶耶寺といえばやはり庭園が随一のみどころであり、摩訶耶寺まで行ったからには庭園を存分に味わうべきだと思います。


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タグ:静岡
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2008年08月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:粉河寺/十禅律院

全国展開の五回目は、和歌山随一の古刹、粉河寺(こかわでら)およびそれに隣接する十禅律院(じゅうぜんりついん)を取り上げます。

粉河寺は、寺伝によれば、770年(宝亀元年)に大伴孔子古(おおとものくじこ)によって開創されたとされています。大伴孔子古は猟師でしたが、山中に光を発する場所を見つけ、そこに小さな庵を営んだのが粉河寺の始まりとされています(粉河寺創建の伝承は、「粉河寺縁起絵巻(国宝)」に遺されています)。

その後、平安時代には既に栄えており、鎌倉時代には七堂伽藍が完備されましたが、豊臣秀吉の紀州侵攻の際の兵火で焼け、江戸時代にも火災に遭い、現在の伽藍は江戸時代中期以降のものです。
現在でも「西国三十三箇所観音霊場」の第三番として、あるいは粉河観音宗の総本山として発展しています。


十禅律院は、もともとは粉河寺の塔頭「十禅院」だったものが、紀州徳川家第十代・徳川治宝によって、滋賀・坂本の安楽律院の末寺になったものです。


粉河寺には、国の名勝に指定された枯山水庭園があり、十禅律院には粉河寺とは趣の異なる枯山水庭園がありますので、これらを見比べながら両寺を見ていきたいと思います。


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タグ:和歌山
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2008年04月13日

若年寄の諸国で侘び寂び:清見寺

全国展開の四回目は、かつて清見関が置かれた興津の地にある古刹、清見寺(せいけんじ)を取り上げます。

清見寺は、東北の蝦夷に備えるために設けられた関所「清見関(きよみがせき)」の傍らに、関所の鎮護として設けられた仏堂が始まりとされています。

鎌倉時代には聖一国師(東福寺開山)の弟子・関聖上人が清見寺を再興し、1262年(弘長2年)に聖一国師を大導師として招いて諸堂の落成式を行ったとのことです。その後、足利尊氏を始めとして足利氏や、当地の守護であった今川氏の庇護を受けましたが、戦国の世にあっては、清見関が置かれるほどの要害の地であることから、清見寺も戦禍に晒されること度々でした。そんな中にあって、今川義元の最高顧問であった太原雪斎が清見寺を再興し、自身が修行した妙心寺の末寺として清見寺第一世となっています。

その後、江戸時代に入って徳川家康が清見寺第三世・大輝和尚に帰依したこともあり、清見寺は江戸幕府の庇護を受けて伽藍修理などを行い、現在の伽藍を残しています。

清見寺は、名勝に指定されている庭園の他、伽藍なども見所がありますので、それぞれを見ていきたいと思います。


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タグ:静岡
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