2008年04月13日

若年寄の諸国で侘び寂び:清見寺

全国展開の四回目は、かつて清見関が置かれた興津の地にある古刹、清見寺(せいけんじ)を取り上げます。

清見寺は、東北の蝦夷に備えるために設けられた関所「清見関(きよみがせき)」の傍らに、関所の鎮護として設けられた仏堂が始まりとされています。

鎌倉時代には聖一国師(東福寺開山)の弟子・関聖上人が清見寺を再興し、1262年(弘長2年)に聖一国師を大導師として招いて諸堂の落成式を行ったとのことです。その後、足利尊氏を始めとして足利氏や、当地の守護であった今川氏の庇護を受けましたが、戦国の世にあっては、清見関が置かれるほどの要害の地であることから、清見寺も戦禍に晒されること度々でした。そんな中にあって、今川義元の最高顧問であった太原雪斎が清見寺を再興し、自身が修行した妙心寺の末寺として清見寺第一世となっています。

その後、江戸時代に入って徳川家康が清見寺第三世・大輝和尚に帰依したこともあり、清見寺は江戸幕府の庇護を受けて伽藍修理などを行い、現在の伽藍を残しています。

清見寺は、名勝に指定されている庭園の他、伽藍なども見所がありますので、それぞれを見ていきたいと思います。


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2008年02月23日

若年寄の諸国で侘び寂び:柴屋寺

全国展開の三回目は、東海道の丸子(まりこ)宿に程近い閑居の寺、柴屋寺(さいおくじ)を取り上げます。

柴屋寺は、吐月峰(とげっぽう)柴屋寺とも呼ばれる寺で、1504年(永正元年)に連歌師の柴屋軒宗長が草庵を結んだのが始まりとされています。
柴屋寺の寺伝によれば、宗長が草庵を結ぶ以前、この地は駿府の外城の一つ、丸子城があり、後の駿河今川家当主・今川氏親がこの地にあって難を避けており、宗長も丸子城に滞在していたと伝えられています。

宗長は、もともと京都で宗祇に師事して連歌を学び、一休宗純に参禅して酬恩庵に住んだほどの人ですから、単なる連歌師ではなく、今川氏親に仕えて今川家の外交顧問としての働きをしたと伝わっています。
そして、今川氏親がこの草庵を寺に改め、柴屋寺にしたようです。

その後、今川家の没落とに合わせるように衰微したものの、徳川家康が朱印地を賜って堂宇を修復し、現在に至っています。

柴屋寺の庭園は宗長自身が築いたもので、慈照寺(銀閣寺)の庭園を模したものとも伝えられ、また周囲の山を巧みに取り入れた借景庭園でも知られており、国の史跡、名勝に指定されています。
この庭園を中心に、柴屋寺を紹介していきます。


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タグ:静岡
posted by karesansui at 23:14| 京都 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

若年寄の諸国で侘び寂び:恵林寺

全国展開の第二回目は、夢窓疎石作庭の庭園を持ち、武田信玄の菩提寺ともなっている臨済宗妙心寺派の古刹、恵林寺(えりんじ)を取り上げます。

恵林寺は、1330年(元徳2年)に、当時の甲斐牧ノ庄の地頭職・二階堂出羽守貞藤(道薀)が、夢窓疎石を招いて自らの屋敷を禅院に改めたのが始まりとされています。

当初は鎌倉・円覚寺の末寺であり、関東準十刹の寺格を持っていたようですが、後に妙心寺の末寺となっています。
戦国時代には武田信玄が快川紹喜を招き、信玄が恵林寺に寺領を寄進したことで寺勢が高まりました。ところが、武田氏滅亡の後、恵林寺がかくまっていた者の引渡しを拒んだため、織田信忠の軍勢の焼き討ちに遭ってしまいました。

後に徳川家康によって快川和尚の法嗣となる末宗和尚が招かれて再興され、江戸時代には甲府藩主となった柳沢吉保によって寺の修復が行われています。
1905年(明治38年)の火事により本堂と庫裡を失いましたが、再建されて現在に至っています。


恵林寺は、夢窓疎石作庭の庭を残すとされていますので、その庭を中心に、幅広く紹介したいと思います。


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タグ:山梨
posted by karesansui at 23:54| 京都 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の地域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする