2007年07月01日

京都の路地裏で:三室戸寺

76回目は、花の寺として著名な三室戸寺(みむろとじ)を取り上げます。

三室戸寺は明星山と号する本山修験宗の別格本山で、西国観音(西国三十三所)霊場10番の札所でもあります。本山修験宗は聖護院門跡を総本山とする密教系の宗派で、平たく言えば修験道の宗派です。
修験道は良く知られるように、山に籠もって修行を行う宗派ですが、もともと神仏を習合する性格がかなり強い教えだったため、明治維新の際に出された神仏分離令によって「禁止」とされ、修験道の一部はそれぞれ仏教の一宗派となり、本山修験宗は天台寺門宗(園城寺(三井寺)を本山とする天台宗系の宗派)から戦後に独立したものです。

三室戸寺は770年(宝亀元年)に、三室戸寺の奥の岩渕から出現した千手観音菩薩を本尊として、光仁天皇の勅願により創建されたと伝えられます。そのような謂れの本尊があることから、天皇貴族はもとより庶民も観音詣でをしたことで、三室戸寺はかなり賑わったとされています。
1573年(天正元年)の槇島合戦で足利義昭に加勢したため、織田信長に焼き討ちされ、現在の本堂は1805年(文化2年)に再建されたものです。
修験道の宗派だった割に、特に廃仏毀釈の影響は見られないように思われます。

三室戸寺の庭は「枯山水」「池泉」「広庭」に分かれていますので、これらをそれぞれ取り上げてみたいと思います。


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2007年04月14日

京都の路地裏で:常照皇寺

「京都の路地裏で」74回目は、常照皇寺(じょうしょうこうじ)です。

常照皇寺は、南北朝期の北朝の初代天皇・光厳天皇が既に上皇になられていた折の1362年(北朝貞治3年)頃に開創したと伝えられています。
この地は観応の擾乱によって南朝方に連れ去られ軟禁されていた光厳天皇(上皇)が晩年に隠棲した場所であり、特に法皇を名乗っていないものの、出家してこの地で禅宗に帰依したのが常照皇寺の始まりと考えて良さそうです。

戦国時代には明智光秀によって寺域をすべて破壊されましたが、皇室由緒の寺ということもあってか、後水尾天皇などの手によって次第に勢力を取り戻し、明治以降は王政復古もあって堂宇庭園を拡大していき、それを第二次大戦の敗戦によって失ったという、一風変わった歴史を持っています(普通の寺院は明治になった時点で廃仏毀釈により打撃を受けたケースが多く見られます)。

常照皇寺は桜の寺として知られていますが、その部分を含めて広範に紹介したいと思います。


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2004年11月10日

京都の路地裏で:光明寺

31回目の今回は、長岡京にある紅葉の名所、光明寺(こうみょうじ)を取り上げます。

光明寺は、山号を報国山といい、法然上人の弟子、熊谷次郎直実(熊谷蓮生法師)が、法然上人を開基として建立した「念仏三昧院」が起こりとなっています。
この地は、法然上人が一番最初に念仏の教えを説いた地であり、それ故、「浄土門根元地」とも称しています。

光明寺の名の由来は、こういう話だそうです。
法然上人入滅後、奈良や叡山の迫害を受け、太秦・西光寺に安置してあった上人の棺から光が放たれました。
光は南西の粟生野を照らしていまたので、これが法然上人の命日の5日前の話でしたので、弟子たちは、上人入滅後16年目の1228年(安貞2年)正月25日に、上人の棺をこの地に移し、荼毘に付して寺の裏山に埋葬しました。
以来、念仏三昧院を光明寺と改めたとのことです。

光明寺は、以来浄土宗の一流派(西山派・証空の法孫)として活動し、現在では浄土宗西山派の解体に伴い、「西山浄土宗」の総本山となっています。

以下、光明寺を見ていきたいと思います。


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2004年11月09日

京都の路地裏で:酬恩庵(一休寺)

30回目の今回は、京田辺にある酬恩庵(しゅうおんあん)、通称・一休寺を取り上げます。

酬恩庵は、元の名を妙勝寺といい、鎌倉時代、大応国師が禅の道場として建てたのが始まりです。
その後、元弘の兵火に遭いましたが、大応国師の6代法孫に当たる一休禅師が、1455、56年頃(康正年間)に堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。
一休禅師はその後、大徳寺の住職となりましたが、その後もこの寺から大徳寺へ通ったといわれています(京都から京田辺市まではだいたい20kmくらいあり、俄かには信じ難いことですが)。
しばらくして酬恩庵は再び荒廃しましたが、1650年に前田利常が方丈を再建し、現在に至っています。

酬恩庵は、殊に方丈庭園(名勝指定)が有名です。
平成15年に撮影が可能となりましたので、その方丈庭園を中心に紹介していきます。


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2004年10月11日

京都の路地裏で:浄瑠璃寺

第24回目の今回は、第23回で取り上げた岩船寺から程近い、浄瑠璃寺(じょうるりじ)を取り上げます。
浄瑠璃寺の創建に関しては、はっきりとしたことは分かっていませんが、寺伝は1047年(永承2年)に、本尊を薬師如来として創建されたという説を採っています。そして、この薬師如来の浄土である「浄瑠璃世界」から浄瑠璃寺という名前になったとのことです。

その60年後の1107年(嘉承2年)に、現在の九体阿弥陀堂が造られました。当時は末法思想真っ只中の世で、貴族はこぞって浄土教に救いを求め、阿弥陀如来をたくさん造ればご利益が得られるとばかり、複数の阿弥陀如来を造るのが流行りました。浄瑠璃寺に残る球体の阿弥陀如来も、この流行の中で造られたものです。
以後、本尊は阿弥陀如来となります。また、九体の阿弥陀如来が造られたことから、この寺の別名を「九体寺」ともいいます。

南北朝時代に、三重塔と阿弥陀堂を除いて全焼しますが、運良く九体阿弥陀堂が残ったことから、日本で唯一の「平安時代の九体阿弥陀仏と阿弥陀堂が残る寺院」として知られています。
また、西国花の寺霊場第16番の花の寺としても知られ、主に馬酔木(あしび)が有名です。

浄瑠璃寺は寺全体が顕教四方仏の考え方に則って整備されています。
つまり、東(過去)に薬師如来、西(未来)に阿弥陀如来を置いています。
それ故、正しいお参りの仕方が決められており、まず東の薬師如来に苦悩の救済を願い、その前でふり返って池越しに彼岸の阿弥陀如来に来迎を願う、という手順になります。
これから、その手順に従って浄瑠璃寺をみていきます。


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2004年10月08日

京都の路地裏で:岩船寺

23回目の今回は、奈良県との境に近い加茂町にある岩船寺(がんせんじ)を取り上げます。

岩船寺は、729年(天平元年)、聖武天皇が行基に命じて建てさせた阿弥陀堂がその起こりとされています。
その後、弘法大師とその高弟の智泉大徳がこの阿弥陀堂で伝法灌頂を修したことから、阿弥陀堂は灌頂堂になりました。
806年(大同元年)には、智泉大徳が報恩院を建立し、さらに智泉大徳が嵯峨天皇の皇孫祈願に成功したこともあって、813年(弘仁4年)に伽藍が整備され、岩船寺が正式に建立されました。

最盛期には39もの坊舎がありましたが、承久の変(1221年)のあおりを受けて大半が焼失し、次第に衰退していきました。
寛永年間(1626-1643年)後に本堂や本尊の修復がなされたものの、その後も衰えていき、昭和18年に三重塔の修理が行われるまでは、放置されているも同然の状況だったようです。
以後はきちんとした管理がおこわなれるようになり、1983年(昭和63年)に老朽化した本堂再建、さらに2001年(平成13年)完成、3年3ヶ月を要した三重塔解体修理で、三重塔創建当初の朱塗りが施されました。

岩船寺は、関西花の寺25ヵ所霊場の第15番で、特に紫陽花が有名で、三重塔の朱と紫陽花の淡い色のコントラストは大変美しいものでした(写真で見た限りですが)。


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