2006年09月24日

京都の路地裏で:大覚寺

67回目は、浄土式庭園よりもさらに前の時代の庭園の遺構、大沢池を持つ大覚寺を取り上げます。

大覚寺は、嵯峨天皇が現在の大覚寺の地に造営した嵯峨離宮が始まりとされています。
嵯峨離宮は876年(貞観18年)に、嵯峨天皇の長女・正子内親王によって寺院に改められ、大覚寺となりました。
初代の門跡(住職)に、弘法大師の法灯を継ぐ淳和天皇皇子の恒寂入道親王(仁明天皇の皇太子、承和の変で皇太子を廃された)が迎えられました。

以後、後嵯峨上皇、後宇多法皇などが大覚寺の門跡となり、鎌倉時代に皇統が2分したとき(これが後の南北朝の戦乱を招く一因となります)に、亀山天皇、後宇多法皇の皇統の上皇が大覚寺に入られたことから、「大覚寺統」という言葉が、歴史上のものとして今日に残ることとなりました。
また、後に南北朝が合一したときも、三種の神器が帰還する儀式は大覚寺で行われるなど、大変皇室と所縁の深い寺院でした。

その後、応仁の乱などで建物が焼け、江戸初期にある程度復興し、その後もいくつかの建物を復興したり、大沢池(後述)を整備して現在に至っています。

大覚寺は、寺院というよりは御所という雰囲気が強く、建物にも「宸殿」「正寝殿」「五大堂」といった、寺院では聞き慣れない言葉が使われています。

大覚寺の主たる庭園といえば大沢池のことを指しますが、大覚寺の諸堂の周りの庭園も含めて紹介したいと思います。


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2006年05月28日

京都の路地裏で・法金剛院

今回から少しの間、あまり「侘び寂び」とは近しくありませんが、浄土式庭園やその遺構を持つ寺院を取り上げていこうと考えています。
66回目は、法金剛院(ほうこんごういん)を取り上げます。
hokongouin01.jpg

法金剛院は、平安時代初期、830年頃に、当時の右大臣清原夏野が山荘を建て、死後に寺とした双丘寺がその始まりです。
続いて、858年(天安2年)に文徳天皇がこの地に大きな伽藍を建て、天安寺とされました。
時代が下り、1130年(大治5年)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院(たいけんもんいん)璋子が天安寺を復興し、法金剛院とされたのが、現在の法金剛院になっています。

その後、一度衰退したものの、鎌倉時代には壬生寺を創建した円覚上人によって復興しましたが、応仁の乱や震災で堂宇を失い、1617年(元和3年)に本堂などを復興したものの、元通りにすることは叶わず、逆に明治時代の山陰本線開通(境内を線路が横切ることになってしまった)や丸太町通の拡幅(堂宇の移転を余儀なくされた)によって規模を縮小させながら、現在に至っています。

法金剛院には重要文化財の仏像や花の寺としての一面もありますが(殊に蓮は有名)、平安時代の浄土式庭園を遺す寺としての法金剛院という面を中心に書いてみたいと思います。


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2006年05月13日

京都の路地裏で:仁和寺

65回目は、世界文化遺産に指定されている仁和寺(にんなじ)を取り上げます。

仁和寺の名前は、徒然草の一節にある「仁和寺にある法師(リンク先は石清水八幡宮ホームページ)」によって広く知られていますが、仁和寺の成り立ちや今の仁和寺については、御室桜を除いてあまり知られていないように思われます。

仁和寺は、886年(仁和2年)に当時の光孝天皇が、「西山御願寺」の建立を発願され、次代の宇多天皇の代、2年後の888年(仁和4年)に創建されました。
仁和寺は、その由緒から皇室、貴族の庇護を受けて繁栄しましたが、この時期にあった京都の寺院として多分に漏れず、応仁の乱で一山ことごとく焼け落ちてしまいました。

仁和寺の再興は、もともと仁和寺が武家と繋がりがなかったからか、難航を極めたようで、結局、徳川家光の寄進による1634年(寛永11年)を待たなければなりませんでした。
その後は仁和寺御殿の焼失があったものの、他の堂宇は江戸初期の状態を保たれたまま、現在に至っています。

ここでは、仁和寺の堂宇と仁和寺御殿にある庭園についてとりあげます。


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2006年04月02日

京都の路地裏で「番外編」・妙心寺隣華院

「番外編」の7回目は、妙心寺の塔頭・隣華院(りんかいん)です。

隣華院は、賤ヶ岳七本槍の一人、脇坂安治が、妙心寺第57世の南化玄興を開山として、1599年(慶長4年)に創建されました。

賤ヶ岳七本槍というものの存在はかなり広く知られていますが、脇坂氏自体はあまり知られていません。
脇坂安治は、豊臣秀吉のもとでは水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは、行きがかり上西軍についたものの、合戦では東軍に寝返って大谷吉継の軍勢を壊滅させた功で伊予大洲に五万三千石を与えられました。
脇坂氏は後年、徳川家光の代の老中・堀田正盛の子を養子に迎えて、譜代大名として明治維新まで続きました。

隣華院の特別拝観では、多数の襖絵などが公開されていましたが、写真は庭園のみです。


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2006年02月28日

京都の路地裏で:妙心寺大心院

64回目は、妙心寺大心院(だいしんいん)を取り上げます。

大心院は、1479年(文明11年)に、当時の足利幕府管領・細川政元によって、現在の上京区大心院町に建立されました。勧請開祖は景川宗隆ですが(ケータイde妙心より)、実質的な開祖は景堂和尚(龍泉派・景川宗隆の弟子)になります。
その後、天正年間に細川幽斎(藤孝)によって妙心寺内に移され、蒲生氏郷の孫・忠知によって本堂などが建造されて、現在に至っています。

大心院は宿坊として、また、昭和の名庭「阿吽庭」を持つ塔頭として知られています。
これから、阿吽庭を中心に紹介します。


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2006年01月21日

京都の路地裏で:宝筺院

63回目は、宝筺院(ほうきょういん)を取り上げます。

宝筺院は、平安時代に白河天皇によって建立された「善入寺」を前身とします。
その後、衰退していましたが、南北朝時代に至って夢窓疎石の高弟・黙庵周論禅師が善入寺に入り、復興しました(黙庵禅師が中興開山となります)。

室町幕府二代将軍足利義詮は、黙庵禅師に帰依しており、善入寺の伽藍整備に力を貸しました。
その結果、総門、山門、仏殿、庫裏、禅堂、方丈などが建つ立派な禅宗寺院となりました。
義詮の死後、足利義政の時代に善入寺は、義詮の院号「宝筺院」に因み、「宝筺院」に名を改めました。

しかし、応仁の乱以降は寺領が横領されるなどの憂き目に遭い、経済的に困窮して衰微の一途を辿ります。
江戸時代以降は天龍寺の末寺となり、伽藍も客殿と庫裏のみになり、幕末には廃寺となりましたが、五十数年後に復興されました。
現在は、臨済宗系の単立寺院となっています。

宝筺院は紅葉の名所として知られていますので、紅葉の庭園を中心に紹介します。


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2005年07月18日

京都の路地裏で:鹿王院

54回目は、鹿王院(ろくおういん)を取り上げます。

鹿王院は、山号を覚雄山と称する臨済宗の寺院で、もともとは1380年(康暦2年)に足利義満が建立した「宝幢禅寺」の開山塔頭(開山堂)として、1387年(嘉慶元年)建立されました。開山は義満の師、春屋妙葩(普明国師)です。
宝幢禅寺は京都の「五山十刹」の中でも、十刹の第五位という寺格を誇っていましたが、応仁の乱で鹿王院を残してことごとく焼け、最終的には鹿王院に併合され、現在に至っています。
鹿王院の堂宇の大半は、1667年(寛文7年)に酒井忠知の息子、虎岑(こしん)和尚の復興によるものです。

鹿王院は、参道や舎利殿が良く知られていますが、それらを含めて紹介して行きたいと思います。


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2005年06月28日

京都の路地裏で「番外編」・妙心寺龍泉菴

番外編の3回目は、2004年に創建後初めて一般公開された妙心寺龍泉菴(りょうせんあん)を取り上げます。

妙心寺龍泉菴は、1481年(文明13年)、細川政元を開基とし、当時の妙心寺四傑の筆頭、景川宗隆(妙心寺第十世)によって創建されました。
妙心寺四傑とは、妙心寺の応仁の乱からの再建を担った雪江宗深の弟子である、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑、東陽英朝を指し、この四傑がそれぞれ龍泉派、東海派、霊雲派、聖澤派を形成し、この四派の拠った龍泉菴、東海庵、霊雲院、聖澤院によって妙心寺が運営されたため、妙心寺のこの体制を「四派四本庵」といいます(臨黄ネットより)

龍泉菴は、建物は江戸時代後期の山内塔頭最大級のものとしてその遺構を存分に残しており、また、内部の襖絵は平成の世になってから新たに描かれたものです。

そんな龍泉菴の襖絵と庭園を中心に龍泉菴を紹介します。


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2005年04月20日

京都の路地裏で:妙心寺桂春院

45回目の今回は、妙心寺桂春院(けいしゅんいん)を取り上げます。

妙心寺桂春院は、1598年(慶長3年)に織田信忠の次男・津田秀則によって見性院として創建された後、1632年(寛永9年)に美濃の豪族出身で豊臣秀吉の家臣であり、江戸時代には直参旗本となった石河貞政が、父親の50周年忌にあたって桂南守仙和尚を請じて建物を改め、桂南和尚の師・心華霊明禅師を開山として創建された塔頭です。

妙心寺桂春院は、江戸初期頃の庭園を現在に残し、早くから有名で、「都林泉名所図会」に書かれ、昭和6年に国の史蹟名勝に指定されています。
これから、その庭を順に見ていきたいと思います。


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2005年04月05日

京都の路地裏で:妙心寺退蔵院

44回目の今回は、妙心寺退蔵院(たいぞういん)を取り上げます。

退蔵院は、1404年(応永11年)、波多野出雲守重通が妙心寺第三世無因宗因禅師に帰依して建立された塔頭です。

当時の妙心寺は、応永の乱のあおりを受けて足利義満によって弾圧を受けており、妙心寺が龍雲寺と名前を変えさせられていたときでしたが、退蔵院は当初妙心寺の外にあり、後に現在地へ移されたものです。

退蔵院も応仁の乱によって焼け、その後、天正期に妙心寺の仏殿の建立を進めていた亀年禅愉禅師によって現在の方丈が再建されました。

退蔵院は、いくつかの庭園と桃山時代建造の方丈、国宝・瓢鮎図などが残っていて、見どころの多い塔頭になっています。
それをいくつか紹介したいと思います。


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2005年02月14日

京都の路地裏で:清涼寺

41回目の今回は、清涼寺(せいりょうじ)を取り上げます。

清涼寺は、別名「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれています。
その由来は、この寺の本尊釈迦如来像にあります。

清涼寺の釈迦如来像は、お釈迦様37歳の生き姿を刻んだものだと伝えられています。
清涼寺のパンフレットによれば、昔、お釈迦様が生母に法(=仏法)を説くために天に昇った際、皆が嘆き悲しむので、時の優填王(うでんのう)というかの地の王様が栴檀の香木で生身の尊像を作らせたということだそうです。
90日後にお釈迦様が戻ってきたときに、この像を見て「私の亡き後はこの像が衆生を済度(さいど・迷いを諭し、苦しみから救われるように導くこと)するであろう」と仰ったそうです。

その後、この像はヒマラヤを越えて中国へ伝えられました。そして、中国に渡った東大寺の僧・ちょう然上人(「ちょう」の字は「大」の下に「周」)が模刻し、日本へ持ち帰ったものが、現在の清涼寺本尊の釈迦如来像になっています。
戦後の調査で、この像の中に、この像を中国で模刻した際に中国の僧によって封入された五臓六腑が発見され、1000年前の中国で既に人間の体の構造が分かっていたことを示すもので、解剖学の見地からも大変貴重な資料とされています。

清涼寺は、前身を棲霞寺(せいかじ)といい、元々は源融(みなもとのとおる・光源氏のモデル・822-895)の別荘、棲霞観があったところで、山荘を源融の死後、寺に改めたものです。
945年(天慶8年)には、重明親王妃が棲霞寺の中に阿弥陀堂を建立し、藤原氏に寄進しましたが、そのときから等身大の阿弥陀像が置かれていたようです。

987年(寛和3年)頃、中国から前述の釈迦如来像を持ち帰ったちょう然上人が、比叡山に対抗すべく、愛宕山に五台山清涼寺の建立を願い出たものの許可が下りず、その弟子・盛算が、1016年(長和5年)に「棲霞寺内に釈迦如来像を置き、清涼寺と号すること」を許可されました。これが、清涼寺の起こりです。

始めは棲霞寺の中の一寺という形で置かれた、いわば仮住まいだった清涼寺も、お釈迦様生き写しの釈迦如来像への信仰が厚くなるにつれ、いつの間に立場が入れ替わり、清涼寺が本寺となってしまい、棲霞寺の遺構ないし名残は、棲霞寺当時からあった阿弥陀堂に残るのみです。

その後、真言宗系だった清涼寺は、一帯が浄土教の修行地になったことから浄土宗系の子院が増え、最終的には明治時代になって、完全に浄土宗の寺院となりました。

これから、清涼寺の伽藍と庭園を見ていきたいと思います。


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2004年12月07日

京都の路地裏で:地蔵院

37回目の今回は、苔寺の近くにある地蔵院(じぞういん)を取り上げます。

地蔵院は、正式には衣笠山地蔵院といい、1367年(貞治6年)、足利義満の時代の管領で著名な細川頼之が、夢窓国師を開山として建立した寺院です。
ただし、細川頼之が招請したのは夢窓国師の高弟宗鏡禅師で、宗鏡禅師が恩師の夢窓国師を開山とし、自身が第二世になったものです(こういった「恩師を開山とし、招請された弟子が第二世になる」ケースは往々にして見られるようです)。
その後、地蔵院は応仁の乱で焼けてしまいますが、北朝の勅願寺に準ぜられていたこともあって、皇室と細川家の援助により復興し、明治になって2寺を合併し、現在に至っています。

地蔵院は、一休禅師が育った(安国寺に入るまで)寺としても知られています。

地蔵院は俗に「竹の寺」と呼ばれ、竹林の参道が知られています。
その参道を中心に地蔵院を見ていきます。


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2004年11月27日

京都の路地裏で:祗王寺

36回目となります今回は、祗王寺(ぎおうじ)を取り上げます。

祗王寺は、かつては往生院と呼ばれた寺の境内にあります。
往生院は、法然上人の門弟良鎮が創建した寺院で、この辺りでは広い地域を境内としていたようですが(祗王寺の隣の滝口寺も、旧往生院です)、年月の経過とともに荒廃して、祗王寺と名を変えてささやかな尼寺として残っていましたが、それも明治初年の廃仏毀釈により廃寺となりました。

現在の祗王寺は、1896年(明治28年)に、元京都府知事北垣国道が嵯峨の別荘を寄付し、大覚寺の塔頭として再興したものです。

ここまでに諸処出てきた「祗王」ですが、彼女は平清盛に寵愛を受け、西八条にあった清盛の館に母子3人で住んでいた白拍子(男装して舞を舞う遊女)でした。
ところが、仏御前と呼ばれる白拍子が出て、平清盛は仏御前に心を移してしまい、祗王は館を追い出されることになってしまいます。

それからさらにしばらくして、清盛から「仏御前が退屈しているから舞を舞え」という命令が来て、それには応じたものの、結局は世を捨てて尼となり、今の祗王寺の地で仏門に入ったといわれています。
さらに、仏御前も、祗王が西八条の館に書き残した

「萠え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」

の歌に無常を感じ、館を出て往生院に出家し、4人で往生の本懐を遂げたといわれています。

今の祗王寺にも、「妓王(=祗王)妓女(祗王の妹・祗女のこと)仏(仏御前のこと)刀自(祗王の母・とじのこと)の旧跡明和八年(=1771年)辛卯正当六百年忌、往生院現住、法専建之」とあるそうです。

祗王寺の庭園は、苔と紅葉で有名ですが、その庭園を紹介します。


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2004年11月12日

京都の路地裏で:化野念仏寺

33回目の今回は、嵯峨野の奥にある化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)と取り上げます。

化野念仏寺は、正式には華西山東漸院念仏寺といい、約1100年前、弘法大師が五智山如来寺を建立して、化野の地で風葬されていた遺骸を埋葬したのが始まりとされています。
その後、法然上人が念仏道場に改め、1712年(正徳2年)に現在の本堂が再興され、浄土宗に属する寺院として現在に至っています。

化野(あだしの)は、古来から葬送の地とされ、人々が石仏を奉納したところですが、化野念仏寺には、明治時代に化野の山野に散乱していた石仏を集め、お釈迦様の説法を聞く姿になぞらえて安置してあります。

そんな化野念仏寺を、つぶさに見ていきたいと思います。


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2004年11月10日

京都の路地裏で:光明寺

31回目の今回は、長岡京にある紅葉の名所、光明寺(こうみょうじ)を取り上げます。

光明寺は、山号を報国山といい、法然上人の弟子、熊谷次郎直実(熊谷蓮生法師)が、法然上人を開基として建立した「念仏三昧院」が起こりとなっています。
この地は、法然上人が一番最初に念仏の教えを説いた地であり、それ故、「浄土門根元地」とも称しています。

光明寺の名の由来は、こういう話だそうです。
法然上人入滅後、奈良や叡山の迫害を受け、太秦・西光寺に安置してあった上人の棺から光が放たれました。
光は南西の粟生野を照らしていまたので、これが法然上人の命日の5日前の話でしたので、弟子たちは、上人入滅後16年目の1228年(安貞2年)正月25日に、上人の棺をこの地に移し、荼毘に付して寺の裏山に埋葬しました。
以来、念仏三昧院を光明寺と改めたとのことです。

光明寺は、以来浄土宗の一流派(西山派・証空の法孫)として活動し、現在では浄土宗西山派の解体に伴い、「西山浄土宗」の総本山となっています。

以下、光明寺を見ていきたいと思います。


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2004年06月24日

京都の路地裏で:妙心寺東林院

19回目の今回は、毎年6月に、特別拝観「沙羅の花を愛でる会」をやっています、妙心寺東林院(とうりんいん)を取り上げます。

東林院は、1531年(享禄4年)に、細川氏綱が、父・高国の菩提を弔うために建立した三友院がはじまりとされ、1556年(弘治2年)に山名豊国が東林院と寺号を改めて妙心寺に移り、以来山名氏の菩提寺として続いている寺院です。

東林院において有名なのは、沙羅双樹こと樹齢300年の夏椿の木でした。
その昔、お釈迦様が入滅(亡くなること)されようというときに、時ならぬ花を咲かせていたのが、「沙羅双樹」になるのですが、本物の沙羅双樹は、とても寒い日本で育つものではない、フタバガキ科の熱帯雨林の構成樹です。


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2004年04月16日

京都の路地裏で:等持院

9回目の今回は、等持院(とうじいん)を取り上げます。

等持院とは足利尊氏の法名で、もともと御池柳馬場にあった等持寺の別院として建てられた寺院で、尊氏の死後、その墓所となりました。
その後、応仁の乱で本寺が焼けたことで、こちらが本寺となりました。

1341年(暦応4年)、夢窓疎石を開山として創建されました。上記のような建立の経緯から、足利将軍家の菩提寺となって今に至っています。
夢窓疎石は、天龍寺、相国寺、西芳寺(苔寺)、臨川寺(天龍寺塔頭)、瑞泉寺(鎌倉)等の諸寺の開山ともなっている高名な禅僧で、7人の天皇から国師号を贈られたことから、「七朝帝師」とも呼ばれます。
また、彼は作庭にも優れていて、天龍寺、西芳寺、そしてここ等持院は彼の作庭によるものとされています。また、彼の作庭が、現在に至る禅式庭園のルーツになるとも言われています。


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2004年04月07日

京都の路地裏で:妙心寺大法院

8回目の今回は、通常4月から5月と11月に特別公開される、妙心寺大法院(だいほういん)を取り上げます。

妙心寺大法院は、1625年(寛永2年)、淡道宗簾(転大法輪禅師)を開祖として建立された寺院です。
このお寺は信濃松代藩の真田家に縁があり、開基の長姫は、真田信之(真田幸村の兄)の長男・信吉の長女で、信之の遺命により、信之の法名をもってこの寺を建立しました。

真田家の儒臣に佐久間象山がいますが、攘夷派に暗殺された佐久間象山の墓もこちらにあります。


このお寺の見どころは、露地庭です(単に、「露地」とも言います)。
露地庭とは、茶室へのアプローチに設けられた庭のことで、茶道の世界に入っていくための、心の準備をする場として造られた庭です。
茶道といえば、侘び、寂びなので、露地庭も当然、侘び、寂びという観念を念頭に置いて造られることになります。

庭を見る側の観点からは「露地庭」ですが、茶道の観点からは、当然「露地」と呼ばれるべきものでしょう。「露地」と呼ばれることの意味はもう一つありまして、普通、庭とは眺めるものですが、「露地」は歩く場であって、眺めるところではありません。
ただ、「露地」自体が庭園としての完成度が高いので、眺めて楽しむこともできるのではないかと思います。


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2004年03月26日

京都の路地裏で:正法寺

6回目となる今回は、大原野、前回取り上げた勝持寺の近くにある、正法寺(しょうぼうじ)を取り上げます。

なお、「正法寺」という名前のお寺は、二年坂を上り詰めたところにもありますが、別のお寺ですので念のため・・・。

正法寺は、Webサイトにもある通り、天平勝宝年間(749-756年)に創建された、非常に歴史のあるお寺ということになります。
創建は鑑真和上の高弟、智威大徳ですが、後に、弘法大師が、厄除けのために、自ら彫った聖観音を納めたことから、真言宗の寺院として発展しました。
のち、ここも応仁の乱で焼け落ち、復興なったのは元和元年(1615年)でした。

正法寺の庭は「鳥獣の石庭」といい、鳥や動物に見立てた石と、庭の中央にある枝垂桜、さらには、遥か東山、京都市内を望む借景がいい庭です。この庭を中心に正法寺を紹介していきます。


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2004年03月21日

京都の路地裏へ:勝持寺

さて、通算5回目、「桜」3回目の今回は、勝持寺(しょうじじ)を取り上げます。

勝持寺は、もともとは680年(白鳳8年)に修験道(しゅけんどう)の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したのが始まりといわれています。
その後、791年(延暦10年)に、比叡山延暦寺を開いた最澄によって再興されました。
応仁の乱により、仁王門を除いてすべて焼失し、現在の諸堂は、すべて以後に再建されたものです。

平安末期に西行法師が勝持寺で出家し、庵を結び、桜を植えたというところから、その桜は「西行桜」と、勝持寺は「花の寺」と呼ばれるようになりました。

勝持寺は、京都の中では最も名の知れた「花の寺」の一つで、JR東海の1998年春のポスターにもなっていますが、気軽に押しかけるには、京都の街中からはやや不便なロケーションのせいか、さほど混んでいません。

その、西行桜を中心に勝持寺を見ていきます。


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