41回目の今回は、
清涼寺(せいりょうじ)を取り上げます。
清涼寺は、別名「
嵯峨釈迦堂」とも呼ばれています。
その由来は、この寺の本尊釈迦如来像にあります。
清涼寺の釈迦如来像は、お釈迦様37歳の生き姿を刻んだものだと伝えられています。
清涼寺のパンフレットによれば、昔、お釈迦様が生母に法(=仏法)を説くために天に昇った際、皆が嘆き悲しむので、時の優填王(うでんのう)というかの地の王様が栴檀の香木で生身の尊像を作らせたということだそうです。
90日後にお釈迦様が戻ってきたときに、この像を見て「私の亡き後はこの像が衆生を済度(さいど・迷いを諭し、苦しみから救われるように導くこと)するであろう」と仰ったそうです。
その後、この像はヒマラヤを越えて中国へ伝えられました。そして、中国に渡った東大寺の僧・ちょう然上人(「ちょう」の字は「大」の下に「周」)が模刻し、日本へ持ち帰ったものが、現在の清涼寺本尊の釈迦如来像になっています。
戦後の調査で、この像の中に、この像を中国で模刻した際に中国の僧によって封入された五臓六腑が発見され、1000年前の中国で既に人間の体の構造が分かっていたことを示すもので、解剖学の見地からも大変貴重な資料とされています。
清涼寺は、前身を棲霞寺(せいかじ)といい、元々は源融(みなもとのとおる・光源氏のモデル・822-895)の別荘、棲霞観があったところで、山荘を源融の死後、寺に改めたものです。
945年(天慶8年)には、重明親王妃が棲霞寺の中に阿弥陀堂を建立し、藤原氏に寄進しましたが、そのときから等身大の阿弥陀像が置かれていたようです。
987年(寛和3年)頃、中国から前述の釈迦如来像を持ち帰ったちょう然上人が、比叡山に対抗すべく、愛宕山に五台山清涼寺の建立を願い出たものの許可が下りず、その弟子・盛算が、1016年(長和5年)に「
棲霞寺内に釈迦如来像を置き、清涼寺と号すること」を許可されました。これが、清涼寺の起こりです。
始めは棲霞寺の中の一寺という形で置かれた、いわば仮住まいだった清涼寺も、お釈迦様生き写しの釈迦如来像への信仰が厚くなるにつれ、いつの間に立場が入れ替わり、清涼寺が本寺となってしまい、棲霞寺の遺構ないし名残は、棲霞寺当時からあった阿弥陀堂に残るのみです。
その後、真言宗系だった清涼寺は、一帯が浄土教の修行地になったことから浄土宗系の子院が増え、最終的には明治時代になって、完全に浄土宗の寺院となりました。
これから、清涼寺の伽藍と庭園を見ていきたいと思います。
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posted by karesansui at 00:07|
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京都(洛西)
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