2009年12月06日

京都の路地裏で「番外編」・東福寺東光寺

今回の「番外編」は、2009年秋の非公開文化財特別拝観(京都古文化保存協会主催)で特別公開されていた東福寺の塔頭、東光寺(とうこうじ)を取り上げます。

東光寺は、1311年(応長元年)に無為昭元(むいしょうげん)によって開創されました。無為昭元は大智海禅師とも呼ばれ、臨済宗永源寺派開祖の寂室元光をはじめとして多数の弟子がいた、この時代きっての高僧だったようです。

その後、東光寺は一時衰微しますが、中興開山の古林智教(こりんちきょう)によって復興されました。明治元年には、長慶院(廃寺)に堂宇を譲って曹渓院と合併し、現在に至ります。

東光寺の見所は大智海禅師像などの仏像が主なのですが、撮影禁止となっています(当然ですが)。苔を主とした枯山水庭園も見応えがあり、こちらは撮影可でしたので、庭園を紹介したいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 21:19| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

京都の路地裏で:高台寺圓徳院

「京都の路地裏で」第78回目は、高台寺圓徳院(えんとくいん)です。

圓徳院は、もともとは豊臣秀吉の正妻・北政所(ねね)の終焉の地です。
現在の高台寺は、豊臣秀吉の菩提を弔うために北政所が1606年(慶長11年)に創建したものですが、圓徳院の場所はもともと寺ではなく、高台寺の創建の前年、1605年(慶長10年)に伏見城の化粧御殿とその前庭を移築して、北政所の居館としたものです。

北政所はその居館で77歳の生涯を終えますが、これを北政所の甥に当たる木下利房が高台寺の塔頭に改め、木下家の菩提寺としたのが圓徳院の始まりとなります。

圓徳院は、木下家の庇護のもと特に衰微することなく、北政所の居館の客殿として建てられた現在の方丈や伏見城化粧御殿の前庭を残して現在に至っています。


圓徳院では、特に伏見城化粧御殿の前庭を移した方丈北庭が有名ですので、これを中心に紹介したいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 23:02| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月09日

京都の路地裏で:青蓮院門跡

77回目は、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)を取り上げます。

青蓮院は、もともとは比叡山にあった住坊「青蓮坊」を、平安時代末期に、鳥羽法皇が青蓮坊第十二代行玄大僧正に帰依して第七皇子をその弟子とし、比叡山ではなく京都の市中に殿舎を造営して青蓮院と改称したのが、その始まりとされています。
鳥羽法皇の帰依した行玄が青蓮院の第一世門主であり、第二世が鳥羽法皇の皇子・覚快法親王になります。この成り立ちから、青蓮院の門主は明治時代まで皇族か五摂家の子弟に限られていました。
親鸞や蓮如が青蓮院で得度を受けており、特に蓮如の時代は本願寺の衰微期で、本願寺は青蓮院の末寺になっていました。

その後、青蓮院は応仁の乱の兵火で荒廃し、江戸時代初期には徳川家康の知恩院造営に伴って、現在の知恩院のある場所全域を召し上げられましたが、徳川幕府はまた、青蓮院復興にも力を尽くし、宸殿を建立しています。

天明の大火の際には、焼けなかった青蓮院が御桜町上皇の仮御所となり、庭内の茶室・好文亭が御学問所として使われたりもしました。
しかし、1893年(明治26年)の火災で大部分の建物が失われ、その際には焼けなかった好文亭も、1993年(平成5年)に放火で焼けてしまいました。好文亭は、1995年(平成7年)に復元されています。
shorenin10.jpg

青蓮院は、このようにして建物は古のものをほとんど残していませんが、庭園は室町時代の相阿弥によるなど、いくつかありますので、その庭園を中心にみていきたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 23:28| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

京都の路地裏で:東福寺即宗院

69回目は、東福寺即宗院(そくしゅういん)を取り上げます。

即宗院は、1387年(嘉慶元年)に、島津家の菩提寺として6代目当主の島津氏久によって建立されたものです。開山は剛中玄柔禅師(東福寺54世・志布志大慈寺2世)で、島津氏久が深く帰依していた人物ですが、当然京都ではなく、志布志で縁があったものと思われます。
現在の東福寺の敷地は、もともと藤原氏の氏寺「法性寺」があったところで(今の東福寺は「法性寺」の跡・・・というよりは、法性寺の寺域を乗っ取ってしまったようなものでしょうか)、その東北、ちょうど今の即宗院のあたりに、九条兼実の別荘「月輪殿」があったとされています。

即宗院はその後も島津家の庇護を受け、幕末には西郷隆盛と尊皇攘夷派の僧・月照を茶室・採薪亭(今は跡のみ残っています)にかくまったことでも知られています。
その後、明治から昭和にかけては衰微し、庭園も荒れていたそうですが、調査によって室町時代後期のものと判明し、修復・整備されるようになって現在に至っています。

即宗院の庭園は、作庭こそ室町時代後期ですが、ところどころに「月輪殿」だった頃の遺構を残し、特に地割に平安時代の寝殿造系庭園の原型があるとされています。
そんな即宗院の庭園を取り上げたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 21:38| 京都 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

京都の路地裏で「番外編」・霊鑑寺

「番外編」6回目は、椿と紅葉が美しい門跡寺院・霊鑑寺(れいかんじ)を取り上げます。

霊鑑寺は、1654年(承応3年)に後水尾上皇の勅許により、皇女多利宮を開山として建立されました。
以来、明治維新まで代々皇女、皇孫女が入寺されたので、「鹿ケ谷比丘尼御所」と呼ばれることもあったようです。

現在でこそ、「門跡」「尼門跡」という、皇孫が寺に入ることで寺格を高めるという機能はなくなっていますが、霊鑑寺は寺宝や書院など、尼門跡としての由緒、格式を伝えるものが多く、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院として、現在に至っています。

霊鑑寺は、殊に椿の寺として知られ、京都市指定天然記念物に指定されている日光椿(じっこうつばき)や数々の椿が配された庭園は見ものです。
以下、この庭園を中心に霊鑑寺を紹介していきます。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 22:10| 京都 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

京都の路地裏で:南禅寺金地院

59回目は、南禅寺金地院(こんちいん)を取り上げます。

金地院は、当初は応永年間(1394-1428年)に、足利義持が北山に創建した禅寺でした。
その後、以心崇伝(金地院崇伝・南禅寺長老)が1605年(慶長10年)に南禅寺塔頭として再興し、現在に至ります。

以心崇伝は、南禅寺中興の祖であり、「黒衣の宰相」とも呼ばれたことのある人物ですが、もともとは足利氏一族・一色氏の出で、4歳のときに南禅寺に入り、1605年(慶長10年)に37歳という当時としては異例の若さで南禅寺の第二百七十世住持になりました。

その後すぐに、徳川家康に見出され、外交文書の作成などに携わりましたが、後には武家諸法度などの法令文書の起草にも手腕を発揮していきます。また、文英清韓(東福寺天得院の回をご参照願います)が起草した方広寺の鐘銘に難癖をつけたり紫衣事件に関わったりもしています。このあたりが、「黒衣の宰相」と呼ばれる所以なのでしょうけれども、おそらくは理詰めで官僚的、ドライな部分が多く、それ故に悪名をすべて被る形となった部分もありましょうから、もっと評価されても良い人物ではないかと思います。

その間、徳川将軍家の庇護を受けながら、南禅寺は現在の伽藍を整えていきます(法堂は豊臣秀頼の寄進によるものですが、方丈、三門などはすべて以心崇伝のもとで建造されました)。
このあたりが、南禅寺中興の祖といわれる所以です。

さて、それほどまでに徳川家と繋がりが深かった以心崇伝ですが、そのためか、金地院には東照宮があり、方丈庭園は小堀遠州の作庭となっています。

これから、徳川家と縁深い東照宮や方丈庭園を中心に紹介します。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:35| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月01日

京都の路地裏で:南禅寺天授庵

58回目は、南禅院に引き続き、南禅寺の塔頭・天授庵(てんじゅあん)を取り上げます。

南禅寺創建の経緯は、南禅院の回で書きましたが、南禅寺開祖の大明国師(無関普門禅師)は南禅寺開創の後すぐに亡くなってしまい、実際に南禅寺の基礎を築いたのは、第二世南院国師(規庵祖円禅師)でした(南禅寺では南院国師を「創建開山」としています)。
このため、開山大明国師はあまり省みられることがなく(このようなことは、何よりも開山を大切にする宗派である臨済宗としては、大変珍しいことだと思いますが)、大明国師の没後、数十年が経過しました。

この状態を嘆いた南禅寺第十五世虎関師錬が、朝廷に奏して開山塔建立の勅許を請い、1336年(暦応2年)に北朝光厳上皇の勅許を得て建設し、翌年建立したのが、天授庵です。

その後、1447年(文安4年)の大火と応仁の乱の兵火で相次いで焼けてしまい、以後、再興されることなく桃山時代を迎えます。
慶長年間に入り、ようやく天授庵復興が俎上に上り、当時の南禅寺住持玄圃霊三和尚が細川幽斎(藤孝)に復興を要請して再興されたのが、現在の天授庵になります。

天授庵は、国の重要文化財に指定されている長谷川等伯の襖絵や現存する唯一の大明国師自讃の肖像など、非公開部分にかなりの見どころがありますが、ここでは通常公開されている庭園に絞りたいと思います。

本堂東庭の枯山水庭園と、書院南庭の池泉回遊式庭園の2つの作庭年代が異なる庭園があり、さらにそれぞれの庭園の中に、異なる時代背景が混じり合っています。
そのあたりを踏まえつつ、天授庵庭園を紹介したいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:36| 京都 ☀| Comment(4) | TrackBack(1) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月31日

京都の路地裏で:南禅寺南禅院

57回目は、南禅寺の塔頭、南禅院(なんぜんいん)を取り上げます。

南禅院の、というよりはむしろ南禅院の場所を発祥の地とする南禅寺の始まりは、1264年(文永元年)に亀山天皇が南禅寺の地の風光明媚を賞されて、離宮を営んだというものです。
その後、亀山天皇が法皇となられるにあたり、離宮を禅寺として、大明国師を開山として、現在の南禅寺が創建されました。

その後、南禅院の場所は離宮の遺構として残っていましたが、一度火災に遭って焼失し、再興された後、応仁の乱で再び灰となり、その後は全く再興されませんでした。
現在の建物は、1703年(元禄16年)に徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によるものです。

南禅院の庭園は、離宮の当時の面影を遺す、鎌倉時代の池泉回遊式庭園です。
そんな南禅院庭園を紹介していきたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:47| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

京都の路地裏で:智積院

第56回目は、東山七条の名刹、智積院(ちしゃくいん)を取り上げます。

智積院は、空海入定(835年(承和2年))から260年ほど後に高野山に建立された「大伝法院」が始まりです。
大伝法院は、真言宗智山派真言宗豊山派などの「新義真言宗」系の真言宗分派において中興の祖とされる興教大師覚鑁(かくばん)が建立した、学問所です。その後、興教大師は高野山金剛峰寺の座主となりますが、もともとは東寺の支配下にあった高野山において、興教大師は初めての東寺出身ではない座主であったため真言宗内で対立が起こり、結果として、興教大師は高野山金剛峰寺の座主を降りて根来山に拠点を移します。

その後、大伝法院も頼瑜(らいゆ)僧正によって高野山から根来山に移り、ますます栄えましたが、その根来における大伝法院の塔頭に「智積院」がありました。
智積院は室町時代の中頃、長盛法印によって創建された塔頭で、大伝法院の中で「学頭寺院(学問における最高指導者)」の地位にありました。

後に根来山は豊臣秀吉に攻められ、一山ことごとく灰となりましたが、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、京都に難を逃れました。玄宥僧正は、1601年(慶長6年)に徳川家康より豊国神社の一部を与えられ、智積院を再興しました。
次いで、大阪城落城の後に、秀吉の早逝した息子(鶴丸)の菩提寺であった祥雲禅寺が寄進され、智積院の寺域はさらに大きくなりました。

以後、根来時代の伝統に立ち返り、学問の寺として他宗派にも開放され、多数の学僧を輩出したとされています。
その後、明治時代に勧学院や金堂が焼けるなどの不幸はありましたが、真言宗智山派約3000ヶ寺の総本山となって発展し、智積院会館や新金堂を戦後に建立して現在に至っています。

智積院の庭園は、国の名勝に指定されています。
その名勝庭園を中心に智積院を紹介します。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:30| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月22日

京都の路地裏で:長楽寺

53回目の今回は、長楽寺(ちょうらくじ)を取り上げます。

長楽寺は、山号を黄台山という時宗の寺で、長楽寺ホームページによれば、もともとは805年(延暦24年)に桓武天皇の勅命で伝教大師最澄を開基として創建された天台宗の別院です(JR東海「そうだ京都、行こう」スポット情報ページには、長楽寺の成り立ちについては「異説も多い」とされています)。
そのためか、長楽寺の本尊は、最澄自身が彫ったとされる観世音菩薩で、これは天皇即位のときのみに開帳される秘仏になっています。

その後、長楽寺は鎌倉時代初期に隆寛律師が住んでいる時期に、隆寛律師が法然上人(浄土宗開祖)に帰依したことから浄土宗に改宗し、さらに室町時代の初期、今度は時宗の国阿上人へと譲られて時宗に改宗となりました。

さらに時が下って江戸時代、1670年(寛文10年)に大谷祖廟を建設するにあたり、幕府の命令で境内地を削られ、さらに1868年(明治元年)には、境内の大半が円山公園に編入されました。

長楽寺は、一遍上人像をはじめとして、時宗の宝物が多数遺されていますが、これは時宗の総本山であった七条道場金光寺を1906年(明治39年)に編入した際に受け継がれたものです。

長楽寺は、相阿弥が慈照寺庭園を作庭した際に試作したと伝えられる庭園がありますので、その庭園を中心に紹介します。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:53| Comment(4) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月20日

京都の路地裏で「番外編」・東福寺退耕庵

「番外編」の第二回は、東福寺退耕庵(たいこうあん)を取り上げます。

東福寺の塔頭、退耕庵は、1346年に東福寺43世の性海霊見によって創建され、応仁の乱によって一時荒廃したものの、桃山時代に東福寺216世住持の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興されました。

安国寺恵瓊は安芸出身の僧で、当初は毛利家の外交僧でしたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉と和議を結んだことから、後に秀吉に重用され、直臣の大名としての扱いを受けることになります。
関ヶ原の合戦のときは西軍の将であって、西軍大将の石田三成、最後は西軍を裏切った小早川秀秋らと徳川方との決戦について謀議を行ったのが、ここ、退耕庵の茶室「作夢軒(さくむけん)」と言われています。

作夢軒は、作られた時代が時代でしたので、茶室であるにも関わらず、「忍び天井」や「伏侍の間(=武者隠しの間)」がある、大変ユニークな造りになっています。

良く知られる通り、西軍は関ヶ原で合戦の末に負け、安国寺恵瓊も捕らえられて、石田三成、小西行長とともに京都・六条河原で斬首されました。
しかし、庵主が斬首されたにも関わらず、退耕庵は特に取り潰しなどの扱いはなく、現在まで続いています。

退耕庵では、庭園の写真を撮ることができましたので、庭園の紹介をしたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月06日

京都の路地裏で「番外編」・光雲寺

番外編の第一回は、光雲寺(こううんじ)を取り上げます。

光雲寺は、山号を霊芝山(れいしざん)という南禅寺の境外塔頭で、南禅寺北ノ坊とも呼ばれています。
もともとは難波(当時は摂津国)にあった寺で、開山は南禅寺の開山・大明国師です。
その後、1657年(明暦3年)に再興され、さらに1664年(寛文4年)、後水尾天皇(当時は既に上皇)と東福門院(徳川秀忠の娘・後水尾天皇中宮)の助力で現在地へ移されました。

光雲寺は、東福門院ゆかりの寺として、また、名園を持つ寺として知られています。

東福門院は、徳川秀忠の娘で、7歳で後水尾天皇との縁談が決まり(政略結婚的な要素が強い結婚です)、14歳で入内し、16歳で正式に中宮となりました。
その娘・明正天皇が即位し、徳川家は天皇家の外戚ともなり、徳川家の朝廷への影響力は多大なものとなりました。東福門院も幕府の経済力を背景に、後水尾天皇とともに、寺社の復興に力を注ぎました。その一つがこの光雲寺となります。
そのため、光雲寺には東福門院ゆかりの品が多数残っています。

続いて、光雲寺の庭園を紹介します。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月30日

京都の路地裏で:泉涌寺

52回目として、泉涌寺(せんにゅうじ)を取り上げます。

泉涌寺は、正式には御寺(みてら)泉涌寺といい(大門に「東山」の額があるものの、現在は山号は称していないようです)、真言宗泉涌寺派の総本山になります。

泉涌寺は、弘法大師が草庵を結び、法輪寺と名付けられた寺(後に仙遊寺と改められる)を、月輪大師俊じょう(「じょう」は草かんむりに仍)が寄進を受ける形で、1218年(建保6年)に開山しました。

泉涌寺Webサイトによれば、月輪大師は宋に仏教(律宗)を学び、当時の宋の仏教の理想を泉涌寺に再現するため、泉涌寺をこのようにしたということです。
・戒律実践道場とするための、規範の改正
・真言院の設立と潅頂の実施
・浄土十六観堂の建設

この建築様式は、宋で臨済禅を学んだ栄西が創いた建仁寺に酷似しており(月輪大師は、僅かな間ながら、建仁寺にいたこともあります)、もし建仁寺が禅の教えが強い寺ではなく律の教えが強い寺であったならば(建仁寺を建立した栄西は、「参禅修行は戒律を守る方が先」と主張していたとのことです)、泉涌寺は建立されなかったかもしれません。

当時は現在のような宗派の分立はあまりなく、今でいうところの律・天台・真言・禅・浄土の各宗派を学ぶ場として(泉涌寺Webサイトでは「律を基本(本宗)とした天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺」としています)建立されたことになります。

その後、1242年(仁治3年)に四条天皇が泉涌寺に葬られて以降、多くの天皇がこの地に葬られるようになり(特に、後水尾天皇から孝明天皇までは歴代の天皇がすべて月輪の地に葬られています)、以来、泉涌寺は「皇室の御香華院(=菩提所)」として発展することとなります。
これが、泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以です。

泉涌寺は、応仁の乱以後いく度か焼けていますが、こうした成り立ちから、皇室の庇護が篤く、特に明治の復興は宮内省によって行われています。
また、明治の神仏分離以降は、皇室としては神道を拝することになったので、従来皇室にて所蔵していた仏像などをこの泉涌寺で預かってもいます。

これから、そんな「特別な寺」としての泉涌寺を見ていきたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月27日

京都の路地裏で:泉涌寺雲龍院

51回目として、泉涌寺の塔頭にして「別格本山」とされている泉涌寺雲龍院(うんりゅういん)を取り上げます。

雲龍院は、正式には瑠璃山雲龍院といい、西国薬師如来四十番霊場にして、泉涌寺の写経道場として発展した塔頭です。
雲龍院は、寺伝によれば、1372年(応安5年)に後光厳天皇(北朝第4代)によって建立されました。また、同じ場所に1389年(康応元年)、後円融天皇によって龍華院が建立され、両院で如法写経が行われるようになりました。

以後、応仁の乱などでの焼失と再建を繰り返し、江戸時代初期には雲龍、龍華の両院が合併して雲龍院となりました。
現在の諸堂は後水尾天皇(当時は既に上皇)の援助で、1639年(寛永16年)以降に再建されたものです。

雲龍院は、苔の庭や本堂・竜華殿など、いろいろな見どころがありますので、それをいくつか見ていきたいと思います。



続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:20| Comment(2) | TrackBack(2) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

京都の路地裏で:安楽寺

50回目の今回は、鹿ケ谷にある古刹・安楽寺(あんらくじ)を取り上げます。

安楽寺は、正式には住蓮山安楽寺といい、浄土宗の開祖・法然上人の弟子、住蓮・安楽の両上人が現在の安楽寺の東・約1kmほど山の中に結んだ「鹿ケ谷草庵」がそのおこりとされています。

安楽寺の歴史を書くにあたっては、当時の念仏教団の弾圧について触れなければなりません。

当時、念仏教団はたびたび弾圧に遭っていましたが、それを決定的にしたのが「住蓮・安楽上人による後鳥羽上皇の女官、鈴虫姫・松虫姫の出家」です。
1206年(建永元年)、かねてより他の女官の嫉妬に悩んでいた鈴虫姫と松虫姫は、半ば押しかけるように鹿ケ谷草庵に来て、出家のお願いをしました。
住蓮・安楽の両上人も、最初は「上皇の許可が必要」として断ったのですが、二人の決死の願いに断りきれず、とうとう出家させてしまいました。
これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、二人は1207年(建永2年)2月9日、住蓮上人は近江国で、安楽上人は京都六条河原で斬首されました。
また、この咎により、法然上人は讃岐へ、親鸞上人は越後へと、それぞれ流罪となり、念仏教団は大打撃を受けることになります(建永の法難)。

その後、赦されて帰京した法然上人によって、両上人の菩提を弔うために建立されたのが、この安楽寺ということになります。
その後、1680年(延宝8年)頃に本堂が再建され、現在に至っています。

安楽寺は、拝観時期を「桜」「躑躅」「皐月」「紅葉」と「カボチャ供養」に絞っていますが、あまり気にせずに書いてみたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月15日

京都の路地裏で:泉涌寺来迎院

48回目の今回は、泉涌寺来迎院(らいごういん)を取り上げます。

泉涌寺来迎院は、正式には明応山という山号を持つ泉涌寺の塔頭で、寺伝によれば、弘法大師空海が806年(大同元年)に創建したとされています。
泉涌寺自体が855年(斉衝2年)建立の法輪寺を前身としていることからしても、この創建時期自体に信憑性は薄そうですが、堂宇が建てられたのが泉涌寺第四世の月翁律師の頃(1218年(建保6年))とすれば、合点がいくところです。

泉涌寺も含め、当時の伽藍は応多の乱の兵火で焼け、来迎院が再興されたのは1597年(慶長2年)、前田利家によってとなります。

その後、この寺の大荒神が安産の守護神として信仰されたことから、朝廷から安産の勅願所に指定され、朝廷の菩提寺である泉涌寺の別当という地位を得るに至りました。

元禄期には、大石良雄(内蔵助)が檀家となり、書院や茶席含翠軒を建立して、世間から隠れるように茶を楽しみつつ、茶室で討ち入りの密議を行ったと伝えられています。
そのことから、来迎院の庭園は「含翠の庭」と呼ばれ、現在に当時の姿を伝えています。
その庭を含めて、来迎院について書いてみたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月28日

京都の路地裏で:知恩院

40回目の今回は、東山の名刹、知恩院(ちおんいん)を取り上げます。

知恩院は、正式には華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)といい、浄土宗の総本山になります(浄土宗では、総本山、大本山、本山、特別寺院、その他の寺院という格付けがされているようです。当然総本山は最上位になります)。

現在知恩院のある場所は、もともとは法然上人(浄土宗開祖)が草庵を結んでいた場所で、その地で1234年(文暦2年)に法然上人の弟子・勢観房源智上人が伽藍を建立したのが知恩院の始まりです。

その後、百万遍知恩寺との本山をめぐる争いに勝ち、徳川家の寄進で現在の寺観が整えられ、現在に至っています。

知恩院といえば除夜の鐘が名高く、その模様はWeb配信されたこともありますが、実地で見る迫力には到底かなうものではありません。
そんな知恩院の除夜の鐘と、方丈庭園や友禅苑などの庭園を中心に知恩院について書いていきます。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月19日

京都の路地裏で:東福寺光明院

35回目は、東福寺光明院(こうみょういん)を取り上げます。

東福寺光明院は、1391年(明徳2年)、金山禅師の創建によるものです。
現在の庭園は、故重森三玲氏が1939年(昭和14年)から24年間の歳月をかけて完成させた枯山水庭園で、「波心庭(はしんてい)」または「波心の庭」と呼ばれています。

また、「虹の苔寺」と呼ばれる苔の美しい寺で、秋には紅葉が色付き、その赤と苔の緑のコントラストが大変美しい寺です。その特徴は、「どこから見ても美しい」という点にあります。

以下、波心庭を見ていきます。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:00| Comment(0) | TrackBack(2) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月07日

京都の路地裏で:東福寺

27回目となります今回は、少々メジャーどころということで、東福寺(とうふくじ)を取り上げます。

東福寺は、正式には慧日山(えにちさん)東福寺といい、当時の摂政、九条道家によって、天台・真言・禅の各宗兼学の寺院として1236年(嘉禎2年)に建立されました。
諸堂の工事は19年もの歳月を要しましたが、その途中の1243年(寛元元年)に、聖一国師(円爾弁円)を招いて開山しました。

その後、1336年(延元元年)までに3回火事で焼けてしまいましたが、20年後には京都五山に列せられる禅宗寺院に相応しい偉観を誇る堂塔を建てています。
京都の禅宗寺院は、その特徴ごとに愛称がありまして、例えば大徳寺は、その茶の湯との関係の深さから「茶づら」と呼ばれていますが、東福寺は建造物の大きさから、「伽藍づら」と呼ばれています。

現在の諸堂の大部分は、明治14年12月の火災後に再建されたものですが、竜吟庵の他、三門なども難を逃れ、室町時代の建物が残っています。

ここから、拝観順路を辿るように書いていきますので、不案内な方は境内案内を見ながらお読みください。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 22:38| Comment(2) | TrackBack(4) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月27日

京都の路地裏で:東福寺龍吟庵

第26回の今回は、東福寺龍吟庵(りょうぎんあん)を取り上げます。

龍吟庵は、南禅寺開山であり東福寺住持第三世でもある無関普門(大明国師)の塔頭です。
龍吟庵の方丈は、室町時代初期に遡る禅宗寺院最古の方丈(応仁の乱より前に建てられた方丈建築は、他にありません)であり、室町以前の建築様式を随所に残しています。
東福寺自体は明治の大火などで何度か焼失していますが、龍吟庵は焼けることなく残り、現在、この方丈は国宝に指定されています。

龍吟庵では、国宝の方丈に加え、重森三玲氏作の庭園を見ることができます。
建築物は国宝であり、現在は撮影禁止のレギュレーションになっていますので、龍吟庵の庭園を中心に見ていきたいと思います。


続きを読む
ラベル:京都
posted by karesansui at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(東山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。