2011年11月12日

京都の路地裏で「番外編」・清浄華院

今回の「番外編」は、第47回京都非公開文化財特別公開で公開された清浄華院(しょうじょうけいん)を取り上げます。

清浄華院はもともと、慈覚大師円仁が860年(貞観2年)に建立した禁裏内の道場が起源になっています。その後、後白河法皇によってこの道場が法然上人に下賜され、浄土宗の寺院となりました。
応仁の乱による荒廃もありましたが、豊臣秀吉の都市改造(寺を現在の寺町通周辺と寺之内通周辺に集めた等)によって移転し、現在に至っています。

清浄華院は浄土宗の寺であるにもかかわらず不動信仰があり(不動明王はもともと空海が日本に持ち込んだものであり、密教との関係が深い)、特別公開では泣不動尊像等、一連の不動信仰に関わる宝物等が公開されましたが、その一端で公開された庭園について触れたいと思います。


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2011年02月27日

京都の路地裏で「番外編」・建仁寺正伝永源院

今回の「番外編」は、第45回京の冬の旅非公開文化財特別公開で特別公開されている、建仁寺正伝永源院(しょうでんえいげんいん)を取り上げます。

長い名前ではありますが、もともとは「正伝院」と「永源庵」という2つの塔頭が併合されたものであり、正伝永源院は正伝院の流れを受けています。
正伝院は、普覚禅師を開山に南北朝時代に建立された塔頭で、1618年(元和4年)に織田有楽斎こと織田長益によって再興されたものです。国宝茶室「如庵」は、織田有楽斎が正伝院で建てた茶室です。
一方永源庵は、細川頼有の帰依を受けた無涯和尚を開山として現在の正伝永源院の場所に開創され、細川家の菩提寺となっていました。

明治の廃仏毀釈は永源庵を廃寺とさせ、正伝院をして如庵を売却させることとなりました。
正伝院は永源庵の地に移り、正伝永源院となって今に至ることとなりましたが、同時期に払い下げられた如庵は何回か移転を重ねることとなり、最終的に1972年(昭和47年)に名古屋鉄道によって名鉄犬山ホテルの現在地に移転され、現在に至っています。

正伝永源院では近年如庵の写しを建てることを企図し、1996年(平成8年)に如庵を、傷んだ部分も含めてそのまま復元した茶室ができました。
今回の公開では如庵も含めて、寺宝等が公開されていましたが、撮影可能だった庭園等を中心に紹介したいと思います。


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2010年04月26日

京都の路地裏で「番外編」・壬生寺

今回の「番外編」は、第44回京の冬の旅非公開文化財特別公開で特別公開されていた、壬生寺(みぶでら)を取り上げます。

壬生寺は、991年(正暦2年)に園城寺の快賢僧都によって創建されました。当初は地蔵院と称していたと伝わっています。京都では珍しい、律宗(本山:唐招提寺)の寺院です。
火災によって堂宇を焼失したものの、壬生狂言をもたらした円覚上人によって中興され、庶民の信仰を集めていました。
幕末には新撰組の本拠地となり、壬生の地名は今でもかなり有名であろうと思われます。

しかし、1962年(昭和37年)に放火によって本堂および本尊他の寺宝を失ってしまいました。本堂は再建され、本尊は唐招提寺から移されて現在に至っています。


従来、壬生寺の庭園は非公開でしたが、この特別公開で初めて公開されました(今後は機会をみて公開されるようです)。その庭園を中心に書いてみたいと思います。


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2008年06月29日

京都の路地裏で「番外編」・金戒光明寺方丈

金戒光明寺の方丈は、もともと一般公開している建物ではありませんでしたが、宗祖法然上人800年大遠忌を記念して「紫雲の庭」(リンク先pdfファイルにつき要注意)が作庭されて以来、毎年5月の連休中と11月に期限を定めて公開するようになっています。

今回、方丈と紫雲の庭を見ることができましたので、紹介する次第です。


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2008年05月25日

京都の路地裏で:建仁寺両足院

「京都の路地裏で」も、とうとう80回を数えてしまいました。
その80回目は建仁寺両足院(りょうそくいん)を取り上げます。

両足院は、建仁寺第35世龍山徳見禅師を開山として創建された建仁寺の塔頭で、創建当初は「知足院」という名前でした。
それが天文年間の火災の後、知足院の別院だった両足院と併合して両足院と称するようになりました。この改称には、当時の天皇・後奈良天皇の名「知仁」を避けるためだったという説があります。

開山の龍山徳見禅師は変わった経歴を持っており、円覚寺で一山一寧についたあと、一山一寧の勧めで中国(当時は元王朝)へ渡り、一時は監禁の身になるなどの苦労を重ね、最後は元王朝から官寺の住持に任命され、また、中国で途絶しそうになっていた臨済宗黄龍派を復興させるまでに至りました。その後、在元40年にして帰国し、建仁寺、南禅寺、天龍寺の住持を歴任しました。

両足院は、饅頭の祖である林淨因と深い関係がありますが、これは龍山徳見禅師が帰国する際、禅師の弟子だった林淨因が、禅師を慕って日本までついてきたことによります。彼は奈良で饅頭を売り出し、彼の子孫が帰化して林家が続いたことで、現在の塩瀬総本家につながっています(塩瀬の歴史もご参照願います)。
林家からは(知足院との併合前の)両足院創建の文林寿郁(林淨因の曾孫)を始めとして、両足院の住持を輩出しています。

その後も両足院は建仁寺住持や、対馬にあって朝鮮との外交に当たった寺院「以酊菴」へ輪住した和尚を輩出するなど、建仁寺の中心寺院としての役割を果たして現在に至っています。


両足院には、江戸時代に作庭された3つの庭園と、それらとは別に坪庭があり、それぞれについて見ていきたいと思います。


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2008年03月11日

京都の路地裏で「番外編」・相国寺開山堂

前回も「京の冬の旅」特別拝観で行った東寺小子房を取り上げたわけですが、今回も「京の冬の旅」で行った相国寺開山堂を取り上げます。

相国寺の開山堂は「開山塔」とも「一名円明塔」ともいいますが、いずれにしても相国寺の開山である夢窓疎石を祀るものとなっています(たとえ「追請開山」だとしても)。
建物自体は1807年(文化4年)に恭礼門院(桃園天皇皇后)の旧殿を下賜されたもので、特に注目すべきは円山応挙の杉戸絵ではないかと思います。特に小犬の絵は圧巻だと思います。


通常、開山堂そのものに前庭を造るのは一般的ではないに思われますが(例外として東福寺開山堂・普門院庭園や酬恩庵開山堂庭園など)、相国寺の開山堂は、単に庭園があるというだけでなく、その庭は珍しい「枯山水と池泉式の融合庭園」であり、こちらで取り上げるに相応しいものだと感じた次第です。


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2007年11月12日

京都の路地裏で:妙覚寺

「京都の路地裏で」79回目は、妙覚寺(みょうかくじ)を取り上げます。

妙覚寺は、山号を具足山といい、妙顕寺立本寺とともに三具足山と呼ばれています。
具足山という山号に共通される各寺はすべて日像上人が開山とされていますが、妙覚寺は実際には竜華院日実上人(立本寺の実質的な開山)によって創建されたようです。日実上人の院号「竜華院」から、北竜華とも呼ばれています。
立本寺も日実上人による関与があり(実質的な開山)、妙顕寺、妙覚寺ともども四条大宮が始まりの地とされていますので、当初より三具足山は近しい関係にあったことが間違いなさそうです。

その後、二条衣棚に移り、その地で他の京都にある日蓮宗の寺院と同じく天文法華の乱に遭い、焼失して堺に逃れています。
織田信長の頃には信長の宿舎の一つとなっていたようですが、本能寺の変で焼けたと伝えられています。
他の寺院ともども、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたって現在地に移りました。天明の大火によって大門以外は焼けてしまい、伽藍を再築して現在に至っています。

妙覚寺は庭園「法姿園」が素晴らしく、この庭園を中心に紹介したいと思います。


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2007年05月23日

京都の路地裏で:法輪寺(だるま寺)

75回目は、通称「だるま寺」と呼ばれる法輪寺(ほうりんじ)を取り上げます。
法輪寺は、1718年(享保13年)に両替商荒木光品の寄進により、大愚宗築禅師を開山として、万海慈源和尚が創建したということです。
(法輪寺のパンフレットでは「妙心寺派にあっては」と書かれていますが妙心寺派に限らず)京都の臨済宗の寺院では武家が開基になっていることが多く、商人が開基であるのは珍しいことです。

だるま寺の名で法輪寺が知られるようになったのは、第十代住職の伊山和尚に因るところが大きく、伊山和尚が「起き上がり達磨禅」をもって禅を広めたことが現在の「だるま寺」としての法輪寺に繋がっているといっても過言ではないでしょう。
現在では、節分になるとたくさんの参拝者が訪れ、「一山ことごとく達磨で埋まる」というほどになっています。

しかし、だるま寺としては知られていても、法輪寺の庭はほとんど知られていません。
この庭を中心に、法輪寺を紹介していきたいと思います。


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2007年01月23日

京都の路地裏で「番外編」・東寺小子房

「番外編」の10回目は、東寺の「客殿」と位置付けられる小子房(こしぼう)を取り上げます。

東寺の小子房は「こしぼう」と読みますが、検索して調べた限りでは、「小子房」とは「しょうしぼう」と読むケースが多く、僧房とも厨房とも位置付けられることが多いようですが、客殿としての位置付けを持つのは、東寺の小子房くらいなのかもしれません。

東寺の小子房は、弘法大師生誕千百年御遠忌を記念して1934年(昭和9年)に再建されたもので、前述の通り東寺の「客殿」として位置付けられています。
内部は6つの部屋に分かれており、堂本印象が描いた障壁画によって飾られています。この障壁画は、5部屋が水墨画で1部屋だけ極彩色豊かなものとなっていて、その1部屋が「勅使の間」となっています。

東寺小子房は、正月(八日から十四日まで)に行われる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」に欠かせないとされていますが、それはこの小子房に真言宗各派の最高位者が集まり、ここを寝所として後七日御修法を行うからだということでした。
この「後七日御修法」はもともと弘法大師の没前3ヶ月の835年(承和2年)に宮中で行われたのが最初で、廃仏毀釈が起きるまでは宮中行事となっていました。それが1883年(明治16年)に復活してからは、東寺灌頂院で行われています。
小子房と「勅使」は、後七日御修法を通してつながっていると考えることができそうです。

さて、東寺小子房には障壁画の他にもう一つ見どころがあり、それが庭園です。
小子房の庭園は、近代随一の庭園家・七代目小川治兵衛の作とされています。もっとも、七代目小川治兵衛は小子房再建の1年前に亡くなっていますので、この庭園の作庭全てに関与したわけではない可能性もありますが、庭園は1日にして成るものではありませんので、さしあたっては「七代目小川治兵衛作の庭園」ということで、小子房の庭園を紹介したいと思います。


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2006年12月06日

京都の路地裏で:相国寺

71回目は、相国寺(しょうこくじ)を取り上げます。

相国寺は1382年(永徳2年)に時の将軍足利義満によって発願され、10年後の1392年(明徳3年)に完成した臨済宗相国寺派の大本山です。
開山は夢窓疎石ということになっていますが、夢窓疎石は所謂「追請開山」であり、実質の開山は春屋妙葩となります。これは、足利義満の請いに対して春屋妙葩が開山になることを「謙譲の徳が深いために」断ったからだとされていますが、春屋妙葩自身は足利義満の禅の指導者であり、政治との関わりがかなり深い人物であって、これを文字通りの「美徳」として受け止めることはあまりできないのではないかと思われます。

相国寺は創建後、2度の兵火と2度の失火で荒廃し、完全に再興なったのは西笑承兌和尚の時代(1585年(天正12年)から)になります。
その後、元和の大火と天明の大火で2度焼け(この際、法堂と浴室だけは残っています)、文化年間に方丈、開山堂などが再興されて現在に至っています。


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2006年11月05日

京都の路地裏で「番外編」・立本寺

「番外編」の9回目として、立本寺(りゅうほんじ)を取り上げます。

立本寺は、日蓮宗三具足山の一つで山号を具足山といい(他の「具足山」は妙顕寺と妙覚寺)、日像上人が1321年(元享元年)に、四条大宮に建立した道場、妙顕寺竜華院に始まる、とされています。
実は、妙顕寺の創建も1321年(元享元年)とされ、四条大宮の地には妙覚寺があったこともあり、このあたりの情報の正しさはあまり確証がないところではあります。
1413年(応永20年)に妙顕寺が破壊され、1416年(応永23年)に妙顕寺の故地である四条櫛笥に日実上人が本応寺を建立し、それが立本寺になったことは間違いないようですが、その背景には本寺の妙顕寺の跡継ぎ争いがあったようで、おそらくは本応寺の建立をもって立本寺の建立とみた方が良いように思われます。

そんな跡継ぎ争いはあったものの、当時の法華宗は京都でとても勢いがあり、立本寺も栄えましたが、天文の法難で焼け落ち、さらには秀吉の命で京極今出川の東北に移転となります。
その後、三度の火災に見舞われ(1661年(寛文元年)の大火から再興したのが説法で有名な日審上人で、この特別拝観では、一生のうちに十万もの曼荼羅を書いた日審上人の曼荼羅のうちの一つを見ることができました)、さらに宝永の大火(1708年(宝永5年))での罹災を期に、現在地に移転して伽藍を整備し、現在に至っています。


立本寺は、本堂などの伽藍配置が近世日蓮宗本山の寺観を良く伝え、また、京都市指定名勝となっている庭園があります。
特に、今般初めて公開された京都市指定名勝の庭園を中心に、立本寺を紹介していきます。


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2006年07月29日

京都の路地裏で「番外編」・相国寺瑞春院

「番外編」の第8回は、相国寺の塔頭・瑞春院(ずいしゅんいん)を取り上げます。

相国寺瑞春院は、相国寺ホームページの記述によれば、足利義満が相国寺第4世の太清宗渭(たいせいそうい)を迎えるために、その禅室として造った「雲頂院」を、僧録司の権威とされる亀泉集證(きせんしゅうしょう)が造った「瑞春軒」が併合して瑞春院としたものです。
天明の大火で建物を失った後、1845年から1849年の間(弘化、嘉永年間)に再建され、一旦客殿を棄却した後に1898年(明治31年)再建して、現在に至っています。

瑞春院は、殊に故・水上勉氏の「雁の寺」のモデルになったことで良く知られ、本堂上官の間(雁の間)に雁が描かれた襖絵が残っています。
ただ、水上勉氏は修行中の小僧であったために、上官の間に入ることはなかったとのことで、孔雀の襖絵を雁と勘違いした、という話を今回の拝観の解説で伺いました(事の次第は定かではないですけれども)。

瑞春院は、室町期の石組が残る枯山水の南庭と、比較的新しい池泉回遊式の北庭があります。
その二つの庭を中心に、瑞春院を紹介していきます。


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2005年12月11日

京都の路地裏で:建仁寺

60回目は、建仁寺(けんにんじ)を取り上げます。

建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山で、創建は1202年(建仁2年)、開基は鎌倉幕府二代将軍源頼家、開山は禅を初めて日本に伝えた栄西禅師になります。
寺号は、当時の年号から採り、当時、如何に栄西禅師が時の権力者と近しい関係にあったかを物語っています。

創建当初は天台・密教・禅の三宗兼学の寺でしたが、十一世住持の蘭渓道隆が臨在禅の道場に改めました。

その後、数々の兵火に堂宇が焼け、建仁寺が再興されたのは安国寺恵瓊によってでした。
安国寺恵瓊は、安芸国守護武田氏の一族でしたが、幼少の頃に一族が滅び、広島の安国寺(現在の不動院)で修行していました。その後東福寺に入って修行し、安国寺の住持となりました。
後には東福寺の住持になり、退耕庵を再興したりしていますが、何故か建仁寺の方丈再建も安国寺恵瓊が行っています(当時は、現在のような宗派の違いはあまりなかったものと思われます)。

安国寺恵瓊はご存知の通り関が原の合戦で敗れて斬首されますが、その後も伽藍の再興が行われ、方丈は室戸台風の折に倒壊したものの、何とか復旧されて現在に至っています。

以下、建仁寺の方丈庭園などを見ていきます。


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2005年10月21日

京都の路地裏で「番外編」・知恩寺

番外編の5回目は、百万遍にある知恩寺(ちおんじ)を取り上げます。

知恩寺は、浄土宗の開祖法然上人が比叡山を下りて最初に居を定めた場所です。加茂の神宮寺、あるいは加茂の河原屋、加茂の釈迦堂と呼ばれていました。その後、法然上人が入滅(死去)された際、弟子の源智上人が師の恩徳を知るための寺、つまり知恩寺という名をつけて、一宇を建立されました。これが知恩寺の始まりです。
浄土宗はその後いくつかの流派に分かれますが、源智上人の系統はその弟子信慧上人の代に至り、記主良忠(浄土宗第三世)と東山で流派の校合をしたところ、全く異なるところがなかったので、以後は別の流派を立てないこととしたとされています(浄土宗ホームページより)。

当初の知恩寺の場所は、現在の相国寺の辺り(烏丸今出川)でしたが、足利義満の相国寺建立に際して移転を余儀なくされます。
その後、堀川中立売付近(元百万遍町の名があります)から御所の東側広小路へと移りましたが、1661年(寛文元年)の二条家より出火した火災で類焼したため、現在地に移りました。
当時の光誉上人は知恩寺中興の祖とされますが、それは光誉上人が江戸へ下って資金集めを行い、現在地における諸堂を整備したからです。

百萬遍」の名の由来は、1331年(元弘元年)に後醍醐天皇の勅命により、第八世善阿上人が百萬遍念仏行を行い、疫病を止ませたという故事に因みます。
後醍醐天皇は知恩寺に対して弘法大師御筆利剣の名号、大念珠とともに「百萬遍」の号を与えました。これが通称となり、地名となって現在に至っています。

知恩寺は通常、境内や御影堂を自由にお参りすることができますが、敢えて「番外編」で取り上げるのは、ほとんど知られていない知恩寺方丈庭園について紹介するためです。


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2005年08月29日

京都の路地裏で:妙蓮寺

55回目は、妙蓮寺(みょうれんじ)を取り上げます。

妙蓮寺は、日蓮の孫弟子に当たる日像上人によって、1294年(永仁2年)に建立されました。
日像上人は日蓮の遺言で京都に日蓮宗を広めるために上京したとされ、五条西洞院の酒屋「柳屋」の未亡人が日像上人に帰依し、邸内に一宇を与え、「柳」の字を二つに分けて、「卯木山」という山号になったと伝えられています。
この妙蓮寺は一時衰退しましたが、応永年間(1420年頃)に宗派の論争から妙顕寺を出た日慶上人によって、再び柳屋の地に再興されました。

その後、寺域を堀川四条に写し、皇室などと関係が深かった日応上人や今出川家出身の日忠上人によって、隆盛を極めました。しかし、天文の法難(1536年)で焼き討ちに遭い、堺への退去を余儀なくされ、京へ戻ったのは6年後の1542年(天文11年)でした。
また、秀吉の聚楽第建築にあたっては、本法寺などと同じく現在地への移転を余儀なくされ、妙顕寺、本法寺といった周辺寺院と同様に、天明の大火(1788年)によって大打撃を受けました。

日蓮の流れを汲む法華宗の流派としては、当初は日像上人直系の四条流でしたが、日慶上人による復興にあたって本門八品門流となり、現在ではその流れを汲む本門法華宗の大本山となっています。

妙蓮寺は、江戸初期に桂離宮の庭を造園した玉淵坊日首がいたこともあり、十六羅漢の石庭があります。
以下、その石庭を中心に見ていきます。


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2005年05月08日

京都の路地裏で:真如堂

47回目は、吉田山に程近い真如堂(しんにょどう)を取り上げます。

真如堂は、正しくは鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんせいごくらくじ)という天台宗の寺です。
984年(永観2年)に、比叡山の僧・戒算上人が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を現在地にあった東三條女院(藤原道長姉、一条天皇の母)の離宮に安置したのがその始まりとされています。

その後、応仁の乱で焼失し、京都市内数ヶ所を転々とした後、1693年(元禄6年)にようやく現在の地に再建されました。

真如堂は紅葉、桜の隠れた名所としても知られています。
また、本堂の奥には素晴らしい庭園が隠されていて、あまり一般には知られていないと思います。
その「隠れたる」桜と庭園を中心に書いてみたいと思います。


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2005年05月01日

京都の路地裏で:妙顕寺

46回目の今回は、日蓮宗の大本山・妙顕寺(みょうけんじ)を取り上げます。

妙顕寺は、正式には四海唱導妙顕寺といい、1321年(元享元年)に、日蓮上人の孫弟子・日像上人が後醍醐天皇より二条西洞院に寺地を賜って建立された、日蓮宗唯一の勅願寺院です。

日像上人は1294年(永仁2年)に京都での法華宗団(現在の日蓮宗)の布教を始めますが、他宗派の攻撃に遭って3度京都を追放され、妙顕寺建立までに27年以上かかっています。
四海唱導(しかいしょうどう)」とは、1358年(延文3年)に日像上人の弟子で妙顕寺二世の大覚上人が桂川で水乞いを行い、それに成功したために朝廷から賜った称号です。

その後の京都の法華宗団は隆盛を極め、室町の最盛期には京都の人口の半分が信者という時期を迎えます。
しかし、聚楽第建設のため、豊臣秀吉により「妙顕寺城」とも呼ばれた広大な寺地を召し上げられて堀川寺ノ内の現在地に移転し、本法寺と同じように天明の大火に遭って、建物を再建して現在に至っています。

妙顕寺は尾形光琳ゆかりのお寺で、泉妙院という塔頭に尾形家一族の墓がありますが、その光琳が作庭したとされる庭園などがあります。
その庭園を見ていきたいと思います。


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2005年04月02日

京都の路地裏で:金戒光明寺

43回目の今回は、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を取り上げます。

金戒光明寺は、通称くろ谷、あるいは黒谷といい、浄土宗に7つ数える大本山の一つで、紫雲山金戒光明寺といいます。
1175年(承安5年)に法然上人が比叡山から下りて最初に草庵を結んだ地とされています。またこの地は、法然上人が師・叡空から譲り受けた地であるともいわれています。

その後、法然の後継者・信空とその弟子によって伽藍が整えられました。
当初は単に光明寺という名前でしたが、南北朝時代に北朝の後光厳天皇から「金戒」の二文字を賜って、現在の金戒光明寺という名前になりました。
ここも応仁の乱で焼け、復興したのは安土・桃山時代に信長、秀吉の庇護を受けてからです。
さらに徳川幕府によって伽藍が整えられ、現在に至っています。

金戒光明寺は、「隠れた桜の名所」だと思いますので、桜を中心に見ていきたいと思います。


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2005年03月24日

京都の路地裏で:本法寺

42回目は、日蓮宗の古刹、本法寺(ほんぽうじ)を取り上げます。
本法寺は、正式には叡昌山本法寺といい、日蓮宗の本山の一つで、日蓮宗公式サイトによれば、「由緒寺院」という位置付けだそうです。

本法寺は、1436年(永享8年)に日親上人を開基として、東洞院綾小路に創建されました。
日親上人は、足利六代将軍義教に諌言して弾圧を受け、焼き鍋をかぶるという極刑を受けたことから、通称「鍋かむり」と呼ばれていますが、義教亡き後は赦され、京都で日蓮宗が盛んになる礎を築きました。
本法寺はその後、四条高倉、三条万里小路と所在を移しましたが、天文の法難(1536年(天文5年))で叡山の僧兵に焼き払われ、6年後に一条堀川で再建され、さらに豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、現在地に移りました。
現在の堂宇は、天明の大火で焼けたあとの1797年(寛政9年)頃に再建されたものです。

本法寺で最も見るべきは、長谷川等伯作の大涅槃図ですが、当然写真撮影などできるものではありません(ほんの少しだけ、Googleのイメージ検索でうかがい知ることが出来ますが、実際に見る迫力とは比較になりません)。
長谷川等伯は能登七尾の出身で、もともと長谷川家が日蓮宗の信者だったことから、本法寺の塔頭・教行院に寄宿していたこともあり、当時の住職・日通上人と親交があったとされています。
ちょうどこの頃、本法寺の移転があり、等伯は日通上人を援助し、その縁もあって、涅槃図が本法寺に納められることになったのです。

次に見るべきが、江戸時代の芸術家・本阿弥光悦作の「巴の庭(別名三巴の庭あるいは三つ巴の庭)」ということになろうかと思います。
本阿弥家はもともと本法寺の大檀那であって、光悦の曽祖父、清信は本法寺開基の日親上人に帰依し、光悦自身も本法寺の移転に当たって、父・光二(移転の工事担当)に尽力したと伝えられています。

以下、本法寺の庭園などについて書いてみたいと思います。


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2004年06月03日

京都の路地裏で:廬山寺

16回目の今回は、廬山寺(ろざんじ)を取り上げます。

廬山寺は「廬山天台講寺」とも「廬山寺準門跡」ともいい、延暦寺の中興の祖にしておみくじの神様でもある元三大師(がんさんだいし)が938年(天慶元年)、船岡山(京都市北区)に創建した寺院です。1571年(元亀2年)に、織田信長の焼き討ちを免れ、現在地に移転されました。

しかしながら、廬山寺において現在最も有名なことは、元三大師のことでも織田信長のことでもなく、現在の廬山寺が紫式部の邸址でもあることです。

一応、源氏物語の最初の構想は石山寺で練られたのではないか、などといわれていますが、詳しいところは全く判っていません。ただ、紫式部はこの邸宅で育ち、結婚し、一人娘の賢子を産み、亡くなった、ということについては、間違いなさそうです。
そのためか、廬山寺の中に「紫式部邸宅址」の顕彰碑があります。


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