2011年11月03日

京都の路地裏で「番外編」・高山寺遺香庵

今回の「番外編」は、高山寺の茶室・遺香庵(いこうあん)を取り上げます。

高山寺は774年(宝亀5年)に光仁天皇の勅願によって創建され、1206年(建永元年)に明恵(みょうえ)上人によって再興された、真言宗系の寺院です。
明恵上人が栄西禅師が宋から持ち帰った茶をこの地に植え、さらに宇治等へ移し植えたことが茶の普及の発端となっていて、今でも11月8日に明恵上人献茶式が高山寺で行われています。

遺香庵茶室は、そのような明恵上人のお茶に対する功績に報いる意図で、明恵上人700年御遠忌にあたる1931年(昭和6年)に茶人・高橋箒庵(義雄)の呼びかけで造られました。
作庭は7代目小川治兵衛(植治)であり、彼の最晩年の作品とされています。


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2007年02月15日

京都の路地裏で:妙満寺

72回目は、円通寺から歩いて15分ほどのところにある妙満寺(みょうまんじ)を取り上げます。

妙満寺は、日什上人によって1389年(康応元年)に創建されました。
日什上人は、もともと天台宗の学頭にまでなった人ですが、のちに高齢になってから日蓮の教えに帰依し、68歳にして都へ上り妙満寺を創建したという、少々変わった経歴の持ち主です。

妙満寺は、応仁の乱などの兵火に遭ったり、他の法華宗系寺院と同様天文法華の乱(1536年(天文5年))に遭ったりで、移転を繰り返してきましたが、1583年(天正11年)に秀吉の聚楽第建設に伴う大規模な寺院移転で寺町二条に移り、近年まで400年ほど、寺町二条にありました。
しかし、都市化による喧騒を避けるため、1968年(昭和43年)に現在の岩倉の地に移って(妙満寺では「昭和の大遷堂」と読んでいます)現在に至っています。

妙満寺は、「雪の庭」で知られていますが、それも含めて妙満寺を紹介したいと思います。


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2006年01月04日

京都の路地裏で:圓光寺

62回目は、圓光寺(えんこうじ)を取り上げます(写真は「圓光寺」の銘がある灯籠です)。
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圓光寺は、1601年(慶長6年)に徳川家康によって開創された、国内教学(当然、仏教の学問)のための寺です。
開山は、当時の下野足利学校第9代学頭の三要元佶(閑室)禅師です。

当初、圓光寺は足利学校の分校として、「圓光寺学校」という名前で伏見に建立されましたが、後に相国寺山内に移り、現在地に移転したのは1667年(寛文7年)です。

当初は、僧俗を問わず入学を許す学校であって、多くの書籍を刊行し(これらの書物は「伏見版」または「圓光寺版」と呼ばれています)、その書籍刊行のために使われた木版は、国の重要文化財とされています。

そもそも、活字は安土桃山時代にスペインや朝鮮から持ち込まれ、「歴史の文字 記載・活字・活版」によれば、桃山期以降の活字の歴史の流れは下記の通りであると示されています。

秀吉が後陽成天皇に献上した朝鮮銅活字により開版したといわれる文禄勅版→後陽成天皇の木活字による慶長勅版→家康が元信に命じて開版させた木活字の伏見版→秀頼の挿絵入り木活字の秀頼版。これに家康が元信に鋳造させ、後陽成天皇に献上した銅活字が続く。


その後、駿河版と呼ばれる銅活字(現存)が作られましたが、日本の活字はこれ以降木活字へと傾斜し、銅活字は使われなくなりました。

さて、圓光寺はその後学校としての機能を失い、明治以降近年まで、臨済宗唯一の尼僧修学道場だったようですが、現在は尼寺ではなくなっているようです。

圓光寺は十牛の庭と呼ばれる庭園が著名です。
これから、庭園をみていきます。


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2005年12月18日

京都の路地裏で:金福寺

61回目は、俳句の聖地と言われる金福寺(こんぷくじ)を取り上げます。
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金福寺は、864年に安恵僧都(第四世天台座主)が慈覚大師円仁自作の観音菩薩を本尊に、天台宗の寺院として創建されました。

その後は荒廃し、元禄の頃に鉄舟和尚によって再興され、臨済宗南禅寺派の寺となりました。
その頃、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅が終わり、たびたび京都に滞在していた(芭蕉DBの年表によれば、京都と大津、膳所、伊賀上野あたりを行き来していたようです)ようで、その際に鉄舟和尚を訪れていたのでしょう。
芭蕉が金福寺の芭蕉庵に住んだことはありませんが、この縁で、金福寺の丘にあった庵が芭蕉庵と呼ばれるようになり、その後一時荒廃したものの、与謝蕪村によって現在の芭蕉庵が建てられるに至ります。

金福寺の庭園は、斜面を生かした刈り込みに特徴があるものです。
この庭園と芭蕉庵を中心に、金福寺を見ていきます。


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2005年09月30日

京都の路地裏で「番外編」・鹿苑寺方丈

通称・金閣寺こと鹿苑寺(ろくおんじ)は、それはそれは有名な寺で、私にはあまり語ることなどないはずではあります。

もっとも、鹿苑寺の公開範囲は極めて限定的でして、境内に入って通路を歩き、室町時代造営の池泉回遊式庭園をちょうど金閣をとりまくようにぐるっと歩き、金閣のまばゆさに感動して終了、というのがお決まりのパターンとなっています。

ところが、鹿苑寺には非公開になっている部分があって、たまに公開されています。
私も訪れる機会がありましたので、ここで紹介しておこうと思います。
が、その前に、鹿苑寺の歴史を振り返ってみたいと思います。

鹿苑寺の創建は1420年(応永27年)で、これは足利義満の死後、遺言によって北山第を禅寺に改めたものです。
北山第とは、義満が西園寺家から譲り受けた邸宅地に建設した別荘で、後年の義満は北山第で政務を行ったとされています。
金閣はこの北山第の舎利殿として建設されたもので、当初のものは1398年(応永5年)に完成しています。
その後、応仁の乱で金閣などを残して焼けたり、一時荒廃したりしたことはあったものの、方丈が1678年(延宝6年)に再建され、徳川家などの庇護を受けてそのまま現在に至る・・・はずでしたが、1950年(昭和25年)に、北山第唯一の遺構である金閣が放火で焼失しました。
現在の金閣は1955年(昭和30年)再建のものです。

ここでは、鹿苑寺の方丈庭園と池泉回遊式庭園としての鹿苑寺庭園を中心に紹介します。


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2005年05月20日

京都の路地裏で:大徳寺芳春院

49回目の今回は、2005年から春季と秋季に特別拝観を行っている大徳寺芳春院(ほうしゅんいん)を取り上げます。

芳春院は、大徳寺の塔頭の一つで、芳春院=まつ(前田利家夫人)を開祖として、1608年(慶長13年)に開創された、前田家の菩提寺です。
開基は紫衣事件で出羽に流された玉室宗珀です。

創建から200年近く経った1796年(寛政8年)に火事で全焼し、現在の建物はその2年後に再建されたものです。
その後、明治の廃仏毀釈で堂宇の大半を失いましたが、1875年(明治8年)に復興しました。

芳春院には京の四閣の一つにあたる「呑湖閣」(どんこかく)と小堀遠州作庭の庭園があり、さらには中根金作氏作庭の枯山水庭園「花岸庭(かがんてい)」があります。
それらを中心に書いていきたいと思います。



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2004年12月21日

京都の路地裏で:大徳寺龍源院

39回目の今回は、ハンドルネーム「karesansui」に因んで、枯山水の名庭がある大徳寺龍源院(りょうげんいん)を取り上げます。

大徳寺龍源院は、1502年(文亀2年)、大徳寺を開山した大燈国師の8代法孫に当たる東溪牧木禅師(大徳寺72世)を開山として、能登の畠山義元、豊後の大友義親らによって創建されました。
龍源院のパンフレットによれば、龍源院の名は大徳寺の山号「竜宝山」の「竜」と臨済宗で唯一現存している松源一派の「源」の両字を採ったものです。

龍源院は大徳寺南派の本庵として、大きな災禍に遭うこともなく現在に至っています。

龍源院はいくつかの名庭を持っていますが、それを順に紹介していきます。


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2004年12月13日

京都の路地裏で:大徳寺瑞峯院

38回目の今回は、大徳寺の塔頭、瑞峯院(ずいほういん)を取り上げます。

瑞峯院は、有名なキリシタン大名・大友宗麟が1535年(天文4年)に創建した塔頭で、開祖は大徳寺91世の徹岫宗九禅師となります・・・と書くとさもありなんですが、実は大友宗麟は1530年(享禄3年)生まれ。実際の創建は別の者によって行われたか、宗麟の名を借りて別の者が瑞峯院を創いたか、あるいは後に大友宗麟の帰依を受けたために、開基まで宗麟のものになってしまったか、いずれかではないでしょうか。
少なくとも、5歳の大友宗麟が、1535年当時に自らの意思でこのお寺を開基したとは思えません(瑞峯院の方丈が1535年に建てられており、寺伝も1535年創建になっていることから、創建は1535年で間違いないと思います)。

大友宗麟は、もともと「義鎮(よししげ)」と名乗っていましたが、1562年(永禄5年)に出家し、宗麟と名乗ります。
この頃は、元々大友家が禅宗と関係が深かったこともあり、禅宗に帰依していました。その後、1578年(天正6年)に洗礼を受けた後はキリシタンとして生きていますが、結局のところ、菩提寺はここ瑞峯院になっています。

瑞峯院では、独坐庭と閑眠庭という二つの庭園を見ることができます。
いずれも、昭和の名庭と呼ばれ、何度か名前を出した重森三玲氏の作庭になるものです。


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2004年11月13日

京都の路地裏で:蓮華寺

34回目の今回は、宝ヶ池の程近く、三宅八幡にある蓮華寺(れんげじ)を取り上げます。

蓮華寺は、寺伝によれば、もともとは西八条塩小路のあたり(現在のJR京都駅あたり)にあった浄土教系(一説には時宗とも)の古寺で、応仁の乱以降荒廃していたものを、1662年(寛文2年)に加賀前田家の老臣・今枝民部近義が祖父の菩提を弔うために、現在の上高野八幡町に移して再興したもの、とされています。
このとき、天台宗に改宗しています。

再興に当たっては、今枝民部近義が桂宮別荘の完成に尽力した関係で、石川丈山、狩野探幽、木下順庵、隠元禅師等、当時の著名文化人が協力しているといわれ、庭園は石川丈山作とも小堀遠州作ともいわれています(ただし、根拠はないそうです)。
庭園を中心に、蓮華寺を眺めていきたいと思います。


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2004年11月08日

京都の路地裏で:実光院

29回目として、前回の宝泉院の隣にある、実光院(じっこういん)を取り上げます。

実光院は、魚山大原寺の僧院として、建立の時期は明らかではありませんが、良忍が出た平安時代末期、宝泉院とほぼ同時期ではないかと推測されます。
実光院は、もともとは道を挟んで向かい、現在の大原陵(後鳥羽上皇陵・順徳天皇陵)の地にありましたが、大正8年に、同じく勝林院の塔頭だった普賢院と理覚院を併合して移転し、現在に至っています。

実光院では、その経緯から、旧普賢院の庭園と旧理覚院の庭園を見ることができ、この2つの庭園が主な見どころといえると思います。


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2004年11月07日

京都の路地裏で:宝泉院

28回目は、大原の里にある小さな塔頭、宝泉院(ほうせんいん)を取り上げます。

平安初期、天台宗を開いた最澄の高弟・円仁が唐から持ち帰った仏教音楽「声明(しょうみょう)」は、1012年(長和2年)、寂源が大原寺(現在の魚山勝林院)を創建し、さらに平安末期に良忍が出たことで、大原が「声明の里」として有名になりました。
宝泉院は、勝林院住職の坊として、平安末期頃に創建されたと寺伝に伝わっています。

宝泉院は、現在では特に庭園が有名で、新緑が眩い初夏や紅葉が色付く晩秋は、ますます美しい姿を見せてくれると思います。


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2004年10月20日

京都の路地裏で:阿弥陀寺

第25回目は、京都市内では「山奥」と言って良い大原のさらに先、古知谷(こちだに)にある、阿弥陀寺(あみだじ)を取り上げます。

阿弥陀寺は、正式には光明山法国院阿弥陀寺といい、1609年(慶長14年)に、弾誓上人(たんぜいしょうにん)によって開基された、浄土宗の寺院です。
開基の弾誓上人は、諸国で念仏三昧の修行をした後、最後の修行の地として古知谷を選び、岩穴に住んで念仏三昧の日々を送っていましたが、近江国伊香立村の人々との縁で、この地に寺を建立することになりました。
弾誓上人は、自らが理想とする人間像を自ら草刈り鎌で刻み、自身の頭髪を植えて安置して本尊とし、寺号を定めて、さらに念仏修行を続けました。

弾誓上人は、1613年(慶長18年)に、石龕(せきがん)に生きながら入られ、いわゆる即身仏、「ミイラ仏」になる形で入定されました。阿弥陀寺には、当時阿弥陀寺で修行中の僧に掘らせた石廟が残っています。
現在、弾誓上人は石廟内の石棺に収められています。阿弥陀寺は、弾誓上人を阿弥陀仏と同様に本尊とすることから、「一流本山」といわれています。

それでは、阿弥陀寺を見ていきたいと思います。


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2004年09月29日

京都の路地裏で:正伝寺

22回目の今回は、正伝寺(しょうでんじ)を取り上げます。

正伝寺は、正式には吉祥山正伝護国禅寺といい、臨済宗南禅寺派の末寺です。
寺伝によれば、東巌慧安(とうがんきあん)禅師の創立で、1282年(弘安5年)、加茂の祠官・森経久が西加茂に荘園を寄付して諸堂・伽藍を造営したとのことです。

正伝寺は、徳川家と縁の深い南禅寺とつながりがあることから、源光庵と同じように天井に伏見城の遺構・血天井を祀り(源光庵と見比べるのも良いのではないかと思います)、さらに、南禅寺の庭園とかなり似た庭園を持っています。

そのような庭園まで、まずは参道を歩きながら風情に浸りましょう。
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2004年08月20日

京都の路地裏で:源光庵

21回目は、鷹ヶ峯にある源光庵(げんこうあん)を取り上げます。

源光庵は、正しくは鷹峰山宝樹林源光庵といい、1346年(貞和2年)、大徳寺の第二世、徹翁(てつおう)国師により、隠居所として開創されたものです。
しかし、1694年(元禄7年)、加賀国大乗寺二十七代曹洞宗復古道人の卍山(まんざん)道白禅師が曹洞宗に改宗し、以後、曹洞宗の寺院として現在に至っています。


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2004年07月02日

京都の路地裏へ:岩倉実相院

20回目となります今回は、岩倉実相院(じっそういん)を取り上げます。

実相院は、1229年(寛喜元年)に静基僧正を開基として創建されました。
その後、応仁の乱を避けるためとも言われていますが、1411年(応永18年)に現在地に移りました。

実相院はもともと門跡寺院で、天台宗寺門派(天台宗には寺門派と山門派があるそうです)では数少ない門跡寺院の随一とされていましたが、現在ではどこの宗派にも属さない単立寺院となっています。

特に、江戸時代、狩野派の絵は門跡寺院のみに飾ることが許されていた関係で、実相院には現在も狩野派の絵が124面も伝えられています。
また、古文書も有名で、江戸時代260年間の門主の日記や「古今和歌集」「新続古今和歌集」などの国文学資料が保管され、一部は公開されています。

しかしながら、実相院は古文書や絵画以外にも、建物や庭園を外すわけにはいきません。
これから、建物と庭園を中心に紹介していきます。


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2004年05月19日

京都の路地裏で:詩仙堂(丈山寺)

14回目の今回は、詩仙堂(丈山寺)(しせんどう(じょうざんじ))を取り上げます。
丈山寺の「丈山」とは、この寺を建立した石川丈山(いしかわじょうざん)のことを指します。

石川丈山は三河国、1583年(天正11年)、現在の愛知県安城市の生まれで、代々徳川譜代の家臣の子として生まれ、16歳で徳川家康の近侍となり、大阪夏の陣まで徳川家に仕えていたそうですが、大阪夏の陣で抜け駆け(軍規違反)を犯し、蟄居を命じられたため、徳川家を離れたとされています。
その後広島の浅野家に仕えた後、54歳で京に帰り、1641年(寛永18年)に詩仙堂を造営しました。

その後、1672年(寛文12年)に90歳の長寿で亡くなるまで、この詩仙堂で清貧の暮らしをしていたといわれています。

丈山は隷書と漢詩の大家で、詩仙堂の名の由来は中国の漢から宋の時代までの詩家36人の肖像(狩野探幽作)を四方の壁に掲げた「詩仙の間」から来ており、丈山の文人としての趣味をうかがわせます。

現在詩仙堂と呼ばれている建物の正式名称は、「凹凸か(「か」は穴冠に果)」といい、「でこぼこしたところに建てた住居」という意味です。実際、詩仙堂を訪れますと、地形の起伏が激しく、「凹凸」の意が伝わってきます。


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2004年05月12日

京都の路地裏で:大徳寺高桐院

前回は、大徳寺大仙院について書きましたが、13回目の今回は大徳寺高桐院(こうとういん)について書きます。

高桐院は、戦国武将の細川忠興(三斎)が1601年(慶長6年)に建立した大徳寺の塔頭で、開祖は玉甫紹○(王偏に「宗」と書きます)和尚で、彼は忠興の父幽斎の弟に当たる人です。

1645年(正保2年)に忠興が亡くなった後、ここ高桐院に葬られ、墓所も高桐院内にあります。
高桐院は、現在の細川家−元首相の細川護熙氏を輩出した細川家に当たるわけですが−とともに、衰退することなく現在に至っています。

高桐院も庭園に多くの見どころがありますので、庭園を中心に紹介します。


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2004年05月06日

京都の路地裏で:大徳寺大仙院

12回目は、大徳寺大仙院(だいせんいん)について書きます。

大仙院は大徳寺北派の本庵とされ、1509年(永正6年)に大徳寺76世の大聖国師古岳宗旦禅師によって創建されました。
臨済宗大徳寺派には四つの派があり、それぞれ学を競うことで大徳寺全体の興隆につなげてきたのですが(妙心寺も同様の四派四本庵体制(妙心寺龍泉菴の回をご参照願います)を採っていまして、こちらが元祖といってよいでしょう)、その四派は下記の通りです。
・一休宗純の流れを汲む真珠派
・一休宗純の兄弟子養叟から春浦宗煕を経て陽峰宗韶につながる龍泉派
・春浦宗煕から実伝宗真を経て古岳宗旦につながる北派
・実伝宗真から東渓宗牧につながる龍源派(南派)


北派からはその後、千利休の首を加茂川の河原から持ち帰ったとされる古渓和尚や沢庵和尚などが出ています。
現在の住職は尾関宗園和尚。かつてはワイドショーで人生相談をやっていた有名な方です。多国語を操り(何ヶ国語で挨拶できるか不明な程)、社会人の私を捕まえて「修行しないか」と冗談半分に仰せになる、面白い方です。

そんな「人」を輩出している大仙院の本領は、特別名勝・史蹟となっている庭園にあると思いますので、庭園を中心に紹介します。


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2004年04月29日

京都の路地裏で:曼殊院門跡

11回目となります今回は、曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)を取り上げます。
門跡とは、皇族や摂関家の子弟が出家して継がれる寺院のことで、圓満院門跡のホームページによると、現在17ヶ寺の門跡寺院が現存しています。

曼殊院は、もともとは比叡山西塔(さいとう)北谷にあって、東頭坊といい、8世紀頃の創建とされています。
947年(天暦元年)に門跡寺院となり、1656年(明暦2年)に現在地に移りました。

修学院離宮近くに曼殊院を移す際に造営に当たった良尚法親王は、後水尾天皇の猶子(ゆうし・官職を与えるためなどの理由で、仮に子とすること)であり、桂離宮を造営した智仁親王の次男です。後水尾天皇は修学院離宮を造営された方であり、2つの離宮と曼殊院は、親戚のような関係にあります。

曼殊院の枯山水は、洛北の庭の中でも名庭にあげられるものです。
以下、曼殊院の庭園を見ていきます。


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2004年04月02日

京都の路地裏で:大徳寺興臨院

都合7回目の今回は、通常は非公開ですが、春と秋に特別公開されることが多い大徳寺の塔頭、興臨院(こうりんいん)を取り上げます。

大徳寺興臨院は、大徳寺の塔頭の一つで、足利時代、太永年間(1520年代)に能登の守護、畠山義総(はたけやまよしふさ)によって建立されました。開祖は大徳寺第86世の小渓和尚です。寺号は、義総の法号から採られたものです。

その後、畠山家の菩提寺となっていましたが、畠山家は義総亡き後没落し、1581年(天正9年)に前田利家が本堂屋根の修理を行ったことから、以後、前田家の菩提寺にもなりました。つまり、興臨院は、畠山家と前田家の菩提寺を兼ねている、ということになります。

そんな興臨院を、庭園を中心に紹介していきたいと思います。


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