2010年10月24日

しばし、滋賀のことでも:永源寺

湖東三山からずいぶんと間が開いてしまいましたが、今回は永源寺について書きたいと思います。

永源寺は臨済宗永源寺派の大本山であり、1361年(康安元年)に当時の近江守護・六角氏頼により、正燈国師寂室元光を開山として開創されました。
開山当時の永源寺は、五十六坊の末庵と2000人の修行僧を抱え、応仁の乱の頃には京都五山の僧が難を逃れてやってくる大寺院でしたが、1492年(明応元年)および1563年(永禄6年)の兵火で焼失し、衰微してしまいました。

寛永年間に別峰紹印禅師やその弟子・空子和尚によって再興され、当時の高僧であった一絲文守禅師が迎えられて伽藍が整えられました。

永源寺は紅葉で名高いお寺であり、庭などとあわせて見ていくことにします。


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2010年03月07日

しばし、滋賀のことでも:西明寺

予告通り前回に引き続き、湖東三山の一つ、西明寺(さいみょうじ)を取り上げます。

西明寺は、834年(承和元年)に三修上人によって開創されました。
室町時代にかけての西明寺の歴史は明らかではありませんが、本堂や三重塔が鎌倉時代のものであり、その時代には既に相当の規模を持っていたことは容易に想像がつきます。

金剛輪寺や百済寺と同じく、織田信長の焼き討ちにも遭いましたが、本堂や三重塔は焼失を免れました。江戸時代になってからは、毘沙門堂門跡の公海大僧正の尽力で復興が進められ、現在に至ります。

西明寺は、庭園と建物、それぞれに魅力がありますので、順に見ていきたいと思います。


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2010年02月11日

しばし、滋賀のことでも:金剛輪寺

予告通り前回に引き続き、湖東三山の一つ、金剛輪寺(こんごうりんじ)を取り上げます。

金剛輪寺は、741年(天平13年)に行基によって開創されたと伝わります。行基創建の寺は実際には行基が手がけていないことも多いのですが、100年ほど下った850年(嘉祥3年)には慈覚大師円仁が入って天台宗の寺に改めたとあるので、創建年代はほぼ間違っていないのではないかと思われます。

その後、鎌倉時代に現在の本堂などが建てられました。百済寺と同じように織田信長の焼き討ちにも遭いましたが、本堂や三重塔、二天門は火災を免れ、数々の仏像とともにその姿を今に伝えています。


金剛輪寺は、桃山時代から江戸時代中期にかけて造られた庭園もありますので、本堂などと併せてみていきたいと思います。


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2010年01月31日

しばし、滋賀のことでも:百済寺

1年半ぶりの「滋賀」ですが、3ヶ月にわたって湖東三山と永源寺について書いていきます。まずは、百済寺(ひゃくさいじ)を取り上げたいと思います。

百済寺は、推古天皇の時代に聖徳太子が百済人のために創建したと伝えられています。そして、当時の本尊は「太子自作の植木の観音」だったと伝えられています。
聖徳太子創建の寺というものは往々にして単なる伝説に過ぎないことが多いのですが、この寺号からは渡来人と何らかのつながりがありそうです。

百済寺は平安時代に天台宗に改められ、「湖東の小叡山」と称されるほどの規模を誇ったようですが、失火や戦火で古建築を失い、さらに織田信長の焼き討ちに遭ってすべて灰燼に帰してしまいました。

その後、堀秀政によって仮本堂が建てられ、1650年(慶安3年)に至ってようやく現在の本堂、仁王門などが完成しました。
1940年には喜見院が現在地に移転され、それに併せて庭園も移築されて現在に至ります。


百済寺は、『天下遠望の名園』と呼ばれる庭園がみどころですので、この庭園を中心に書いていきます。


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2007年10月28日

しばし、滋賀のことでも:大通寺

「滋賀のことでも」2回目は、長浜御坊こと大通寺(だいつうじ)を取り上げます。

大通寺は、もともとは長浜町内にあった「総会所」が始まりとされています。
この「総会所」が旧長浜城内に移って、「十四日講会所」となりましたが、この頃から「大通寺」と呼ばれるようになったようです。

その後、彦根藩主となった井伊氏の寄進で現在地に移り、井伊氏との関係を深めつつ(浄土真宗の寺院なので、井伊氏からの輿入れを受けたり婿養子を得ることができた)、真宗大谷派別格別院としての格式を保って現在に至っています。

大通寺は2つの名勝庭園を持っており、この庭園を中心に大通寺を紹介していきたいと思います。


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しばし、滋賀のことでも:青岸寺

滋賀は京都の隣ということもあり、京都に負けず劣らず、寺院が多いところのように思われます。
その中でも、個人的にはっと思わせられるところのあった寺院を取り上げていきたいと思います。

第1回目は、北国街道・米原宿の中にある青岸寺(せいがんじ)を取り上げたいと思います。

青岸寺は、室町時代初期にばさら大名として知られる佐々木(京極)道誉によって「不動山米泉寺」という名前で開創されたと伝えられています。
しばらく後に近江守護となった佐々木(六角)氏頼より、持仏を胎内に納めた聖観音菩薩が奉納され、これを現在も本尊としています。

米泉寺は1504年(永正元年)の兵火で本尊以外はすべて焼けてしまい、1534年(天文3年)に小堂が建てられましたが、その後は六角氏が近江から追われたこともあり、寺が再建されたのは江戸時代に入ってからになります。

1650年(慶安3年)に大雲寺(現在も彦根に残っています)第三世要津守三和尚によって米泉寺は再興されましたが、米泉寺再興の寄進を行った伊藤五郎助が1656年(明暦2年)に亡くなったのを悼んで、五郎助の諡「青岸宗天」にちなみ、「吸湖山青岸寺」と名を変えたと伝えられています。
青岸寺は大雲寺の末寺として彦根藩井伊家などの庇護を受け、現在に至っています。

青岸寺は、再興時に庭園が造られましたが、彦根城下に楽々園が築造されるにあたって石が取り出されて消滅しました(現在でも楽々園に枯山水の庭園が残っています)。
その後、1678年(延宝6年)に、青岸寺第三世興欣和尚の命により、楽々園を造った香取氏によって再築された庭園が、現在の青岸寺庭園とされています。

以下、庭園を中心に青岸寺を紹介していきたいと思います。


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posted by karesansui at 00:15| 京都 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 滋賀(湖北・湖東) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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