2006年10月15日

京都の路地裏で:勧修寺

68回目は、勧修寺(かじゅうじ)を取り上げます。

勧修寺は、900年(昌泰3年)、生母藤原胤子の菩提を弔うため、醍醐天皇によって創建されました。
醍醐天皇はこのあたりの地に所縁が深く(天皇陵は文字通り「醍醐」の地にあります(後山科陵宮内庁ホームページより))、父・宇多天皇や自らの子孫がどちらかといえば嵯峨野のほうに所縁があったのと比べると、やや珍しさを感じさせる部分ではありますが、これは生母藤原胤子がここの出身だったことが関係しているかもしれません(「今昔物語集」にそのあたりの経緯が伝えられています)。

勧修寺も、胤子の母の父・宮道弥益の山荘を改めたものと伝えられています。
勧修寺の境内はもともと広かったと考えられ、付近には「勧修寺(地名は「かんしゅうじ」)」の地名が南北に広がっています。

勧修寺は代々法親王が入られ、門跡寺院としての格がありました。1470年(文明2年)に応仁の乱の兵火で焼け、江戸時代に将軍家と皇室の援助を得て復興し、現在に至っています。

勧修寺には、平安の色を強く残す庭園「勧修寺氷池園」があり、借景も取り込んで、広大な庭園の美を感じさせてくれます。
ここでは、「氷室の池」を中心とした庭園を中心に紹介したいと思います。


勧修寺には、建物のすぐ近くにある江戸期の復興時に造られたと思われる平庭と、平安期から残る勧修寺氷池園がありますが、まずは平庭から。

勧修寺型灯篭とハイビャクシンです。
kajuji01.jpg
勧修寺型灯籠は徳川光圀(=水戸光圀・・・水戸黄門のことです)の寄進によるもので、独特の形が他にあまり例を見ないことから、「勧修寺型」の名がついています。

ハイビャクシンはヒノキ科のイブキの変種で、こちらのものは樹齢750年ともいわれています(つまり、応仁の乱の前からのもの?ということでしょうか)。
この角度からでは分かりにくいですが、灯籠を覆うようにうねるように生えています。


こちらは観音堂です。
kajuji02.jpg
昭和初期の建立ですが、氷池園のすぐそばにあり、氷室の池の境内と反対側からみたときには庭園を象徴する建物だといえます。

「勧修寺氷池園」を境内側から氷室池方向へ望みます。
kajuji03.jpg
周囲の景観のうち、南側だけはこのように借景が残り、広い池をさらに広く見せています。
なお、かつては池がさらに南に広がっていた、とのことです。

先ほどとは反対方向からの写真です。
kajuji04.jpg
池の狭いところから撮っているので、池が狭く見えますが、広いところでは充分に舟を浮かべて漕ぎ出すことができるほどの大きさが、今でも残されています。
左には観音堂、右には書院などが見え、池以外も境内の広大さが分かろうというものです。


庭園の近景です。
kajuji05.jpg
春から夏にかけて、勧修寺では蓮、睡蓮、杜若などが花を咲かせます。
これは一つの勧修寺の「旬」であり、他には春の桜、秋の紅葉など、訪れる人を飽きさせない見どころがあります。
そして、池には蛙や鳥が共生し、広大な苑地ならではの自然美をたっぷりと味わわせてくれます。


その自然美が、古く平安の、かつて「一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊凶を占った」とされる池を中心に展開されていることには、素直に敬意を表するべきなのではないか、と思っています。


−勧修寺の概要−
寺号:亀甲山勧修寺
宗派:真言宗山階派(大本山)
拝観料:400円
拝観時間:9:00-16:00
住所:京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6

−勧修寺への行き方−
京都市営地下鉄東西線小野駅から徒歩6分
ラベル:京都
posted by karesansui at 11:49| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都(山科・醍醐) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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